The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

カナシミよこんにちは インサイド・ヘッド


 前回の記事が予想以上のバズり方をしてちょっと怖くなってしまったわけですが、いわゆる映画感想記事の中でも酷評と言っていい記事で過去最高のはてなブックマーク数を集めてしまったことはちょっと複雑(この次が「パシフィック・リム」の感想でやはり褒めてない記事)で、好きだと思った映画をべた褒めしてるような記事がもっと読まれるようになるといいですね。では気を取り直して。ピクサーの最新作「インサイド・ヘッド」を観賞。

南の島のラブソング


 同時上映の短編(厳密にはこの前に日本独自のドリームズ・カム・トゥルーによるイメージビデオが流れるんだけどこれは後述)は「南の島のラブソング」。海上にポツンと浮かぶ火山島が孤独の中歌い続けていたが、やがて海中に没する。入れ替わりに若い火山島が浮上。その歌声に反応して再び古い火山島も隆起し2つの島は合体してめでたしめでたし、みたいな感じ。
 正直、あまり出来はよろしくないと思いました。流れ自体はまあいいとして、ほぼ同じメロディーの繰り返しが続くのと、古い火山がおっさん、若い火山が女性として描かれているのです。これは厳密な生物ではない自然を擬人化しているのだし、もう少し年齢による外見はともかく性別は曖昧にして恋愛というよりも友情に近い描写の方がよかったのではないかなあ、などと思ったり。こういう事を書くとまたぞろ「PCにとらわれすぎてる」とか言われるかもしれないけれど、前回の実写版「進撃の巨人」にしても今回にしても、特に最初から「ジェンダー描写がどうなってるか確認してやる」というつもりで観賞に臨んでいるわけではなくて、なんか乗りきれないなあ、と思ってその原因を探るとどうやら問題はその辺にある、ということが多い気がします。

インサイド・ヘッド

 人間がこの世に生を受けると赤ちゃんにも感情が芽生えます。まずはヨロコビ、そしてビビリ、ムカムカ、イカリ。それからカナシミです。この感情たちが子供をそれぞれの得意分野で守り、一緒に成長していきます。ミネソタの女の子ライリーも5つの感情に守られながら大きくなっていきました。しかしある時、親の都合でサンフランシスコへ引っ越すことに。都会に馴染めず、両親やミネソタの親友ともギクシャク。そんな中ライリーの頭のなかではヨロコビとカナシミが脳内司令部から放り出されるという事件が起きます。早く戻らないと!やがてライリーの頭のなかのイマジネーションの世界が次々と崩壊。このまま司令部に戻れないとライリーの心が壊れてしまう!

 特に観たくもないドリカムのイメージビデオ、正直不出来な短編、と苦行を乗り越えてようやく本編。ただ、映画にもスタート直後からアクセルをガンガン吹かすタイプの作品もあれば、スロースターターな作品もあって、この「インサイド・ヘッド」はどちらかと言えば後者だと思います。また主人公にあたる擬人化した感情であるヨロコビが無邪気ないじめっこというか自分が絶対正しい、ネガティブな奴は嫌い、というタイプのキャラクターで最初のうちは共感できるどころか見ていて嫌なやつ、と思ってしまうのでなかなか映画に入り込めませんでした。
 特にカナシミに対する態度がひどくてこの辺は結構後半になるまで苛つきっぱなしでした。ヨロコビとカナシミが司令部の外に放り出され、戻るための冒険を続ける時もとにかくカナシミを邪険に扱う(なんならなんとかカナシミを置き去りにしたまま自分だけ司令部に戻る方法はないかと考えたりする)ので。ただこういう主人公が最初は嫌なやつという作品もあるわけで(第9地区とか)、そのヨロコビの変化も見どころですね。その分後半のクライマックスが活きるわけですし。
 途中、ライリーの架空の友達だったビンボンと出会う。このビンボンがちょっと怪しげで最初ライリーの思い出を封じた玉を盗もうとしてるっぽいのだけれど、あれはなんだったんだろう?結局最後まで明かされなかったような。古くなった特に重要ではない思い出は処分されてしまうので、自分とライリーの思い出の詰まった玉を保護した、とかなのかなあ。
 基本感動路線でスペクタクルな部分も多く、笑いもたくさんつまっています。ただ頭の外(原題は「Inside Out」)、いわゆる現実のライリーの描写はこれまでのピクサー作品にない痛々しさ。ヨロコビたち脳内のドタバタファンタジー路線と対照的にライリーの壊れていく様子がヒリヒリ伝わってきます。

 面白いのは劇中、ライリーのパパとママの頭のなかも映しだされていて*1、そこでは感情たちの性別がはっきりしているのですね。ママなら全員女性に、パパなら男性に。これから思春期を迎えようというライリーの中では女子人格が3名、男子人格が2名という構成。これが思春期を迎え成長するにしたがって、(ライリーの場合であれば)ビビリやイカリが女性化して行くのでしょうか?あるいは人によってはその変化の枠に留まらない人もいるのかもしれません。
 また、ママの頭のなかではカナシミが司令官になっていますが、パパの頭のなかではイカリが司令官となっています。この辺もそれぞれベースとなる人格が、どの感情が大きいかで判断できるようで興味深いです。ただ、大人であるパパとママの感情たちはそれぞれの感情が特出することなくカナシミであってもムカムカの要素もあればヨロコビの要素もあるみたいに極端化していないのです。これがそれぞれの感情が激しく自己主張して爆発しやすい子どもと多少嫌なことや嬉しいコトがあってもすぐ表に出さない大人との違いと言えます。この辺、感情のメカニズムをうまく擬人化していていますね。

 さて、今回は日本語吹き替えで観賞。ヨロコビの竹内結子、カナシミの大竹しのぶ、ビンボンの佐藤二朗あたりがいわゆる「タレント吹替」か。でも事前に知ってた竹内結子大竹しのぶはもちろん、知らなかった佐藤二朗も素晴らしくてまったく問題はなかったです。3DCGアニメとタレント吹替の相性は比較的良い!と言うのは今回も実証。
 で、やはりいちばん嫌なのはドリームズ・カム・トゥルーによる日本独自のテーマ曲「愛しのライリー」のイメージビデオが本編前に流れること。日本の子供の笑顔がたくさん映しだされるやつで、テーマに反して流れてる最中ずっと感情を殺してました。いや正確には「ライリーライリーうるせえなあ。お前はやしきたかじんか!」とムカムカとイカリが司令部の主導権を握っていたかも。

砂の十字架

砂の十字架

 僕は別に日本語吹き替えはもちろん、多少のローカライズも構わないと思っていて、特にこういうファミリー向けの映画ではむしろ必要な作業だと思っています。吹替、劇中出てくる新聞などを日本語に変える作業。そして主題歌の日本語版制作。例えばオリジナルで使われている主題歌の日本語版、向こうのアイドル的歌手が歌っているなら日本でも似たような位置づけのアイドル歌手に日本語で歌わせるとかは全然いいと思います。その意味でオリジナル至上主義ではないです。多分日本以外では特にディズニーやピクサーの作品なら各国向けにローカライズして公開と言うのはむしろ普通のことだと思うし。
 ただ今回のはいただけませんね。どちらかと言えば「風立ちぬ」の映像をいろんな映画の前に流した無神経さに近いと思います*2。これが開場後、上映前の明るい時に流れてるだけとかだったらまだ全然いいと思いますが。あと僕の場合、上映前に予告編集を観るのも劇場鑑賞の醍醐味なので、このドリカムのが終わった頃に入る、という選択肢も取れず、辛かったです。ドリームズ・カム・トゥルー自体には思うところはあんまりないのですが(決して好きではない)、これで「本編前のドリカム良かったね」という人もそうそういないのではないのかと思うので誰も得しない感じですね。ローカライズの方向性を間違えないでほしいです。本編そのものの日本語吹き替えはとても良かったので本当にそういう直接関係ないところでネガティブな印象がつくのは残念!

インサイド・ヘッド オリジナル・サウンドトラック

インサイド・ヘッド オリジナル・サウンドトラック

THE ART OF インサイド・ヘッド (ジブリ)

THE ART OF インサイド・ヘッド (ジブリ)

 なぜ人には悲しみが必要なのか?楽しいだけではダメなのか?そういうあたりを単純化してはいるものの、うまく描いた作品ですね。オススメ。
悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

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*1:エンディングでは登場した様々なキャラの脳内も映し出される

*2:映像と歌が良かったのでそれほど苦にならなかったけど「アナと雪の女王」の「let it go」が流れるのも同じかも