The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

壁から出ることを拒んだ制作者たち 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

 公開初日に観に行ってきました。実写版「進撃の巨人ATTACK ON TITAN」。以前にアニメ映画「進撃の巨人」の方でも書いたとおり僕は「進撃の巨人」の映像コンテンツとしてはアニメ版の方で満足してるので特にこの実写版を観る気もなかったのですが、試写会で観た人たちの評価が高かったこと、公開日が映画の日だったこともあって劇場まで観に行きました。なんだかんだ気になる題材ではあるのですよ。「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観賞。最初に言っておきますがまったくと言っていいほど褒めてません。けなしてます。

 この作品を観る前には予告編以外は特に積極的に事前情報を得ることはしなかった。それでも先に言ったような試写会で観た人たちの反応や、某評論家?の観た観ないでの監督とのいざこざ(評論自体は読んでない)、脚本を担当した町山智浩氏が何度も「原作者公認のもと色々変えた」という発言などは入ってきていた。僕自身この映画化は多少ネガティブに捉えたこともあってかなり構えて臨んだことも事実。ただこれは特にこの作品だからというより、邦画の漫画の実写化作品、ましてやその原作のファンとしてはいつもの僕の態度である。
 結論から言うとかなりダメで、キャストや特撮技術は頑張っていたと思うけれど、肝心のドラマ部分が演出・脚本共にダメで多分今年のワーストとなる作品だろう。
 共同脚本の町山智浩氏の意向がどのくらい脚本で占めているのかは分からない。でもインタビューなどを読む限り、物語や設定の多くは彼が考え渡辺雄介氏がまとめたという感じなのだろうか。
 僕は町山智浩という人物には大きな影響を受けている。雑誌化する前の「映画秘宝」を読んだ時の「やっと自分の満足する評論に出会えた」という気持ちは今でも変わらない。映画を観てただ面白かった、と思ってそれで終わりだった頃は町山氏(や映画秘宝のライター)の評論はほぼ全面的に受けれ入れていた時期もある。ただ曲りなりも自分で映画の感想を文章化してブログという形で外に出すようになると、なんか違うな…と思うようになってきたことも事実。さらに評論以外のSNSなどでの部分に触れるようになって(特に2011年以降)徐々に映画秘宝からは離れてしまった。これは僕が変わった面もあるが町山氏や映画秘宝自体がかつてはメジャーに対してのカウンターだったのに今や権威となってしまった部分も大きいと思う。
 この映画「進撃の巨人」では監督が樋口真嗣氏。かつて「パシフィック・リム」の時に「この映画は君ら(女子)のものではない」発言をした人だ。町山氏も「女性が急にマニアックなものを読み始めたら男の影響」等とツイッターで発言してそのとても古臭い価値観を爆発させていた。だからその二人による映画化と聞いてとても不安だったのも事実だ。「パシフィック・リム」は作品自体は僕は退屈に感じたけれど、あそこでの女性(菊地凛子)の描写はとても現代的なものだった。
 諫山創によるマンガ「進撃の巨人」を実写映画化する際に、例えば原作の方では人類を構成する人種がほとんどが白人で、主要人物のミカサ・アッカーマンが数少ない東洋人という設定などは日本人キャストのみで映画化するならまず無理なわけで僕自身「とにかく原作に忠実に撮れ」などは思わない。ミカサに白人俳優を当てて人種を逆転させるとか、希少な東洋人という設定は無視とか全然OKだろうと思った。僕が考える「進撃の巨人」の芯となる部分は

  • 人を食べる巨人のせいで巨大な壁に囲まれた人類の生存圏
  • その最前線で戦う少年少女達
  • アクションとしては立体機動

の3点だろう。だからこの3点が守られていれば設定的にまったく別ものになっていてもそれだけで批判する気はなかった。こうして(僕の考える)作品の基板を考えると、「進撃の巨人」の映画化は単に漫画の実写化と言うよりはアメリカ映画における「ハンガー・ゲーム」や「メイズ・ランナー」のようなヤングアダルト小説の映画化に近いのではないかと思う。
 だから映画独自の設定、全員人種的に東洋人、自動車(飛びはしないがヘリも出てくる)や銃器もある、より現在の延長線上にある世界観。軍艦島で撮影されたという壁の中の世界、などは全然問題無く受け入れられた。ただ登場人物の名前が日本人風になっていたり、シガンシナ地区にあたる地名がモンゼンとなっていたりする日本語の世界にしてししまったのは正直ださい。そのくせ、エレン、アルミン、ジャン、サシャなど一部の人名だけは原作のままだし。僕はもうこういうのは開き直って(少なくとも現在から100年以上経っているわけだし)原作風ネーミングで良かったと思うけれど。そのくせリヴァイに関しては「東洋にはヴの発音がないから」とかいうわけのわからない理由で却下にしているし。いや今現在公式に人名に使えるか分からないけれど、「V」を「ヴ」で表す表現は一般的だし、100年以上後の世界でなんでそんな理由が出てくる?別に表記は「リヴァイ」で発音は「リバイ」でいいじゃん。まあ、リヴァイに関しては誰が演じてもどんな出し方をしても難しいので出さない事自体は正解だと思うけれど理由はまったく理解できない。あと原作の舞台はドイツで出てくるのもドイツ人と言っているけれど、モデルにはしているかもしれないけれど、ドイツそのものではないよねえ。いや原作者が脚本家にだけ語った設定とかあるのか知れないけれど。 
「改変部分は原作者公認」。このフレーズは何度も目にした。原作者諫山創の実際の考えはわからない。でもすでに世に送り出された漫画作品「進撃の巨人」はこの手のアクション作品としては珍しいぐらい、ジェンダーの描写がフラットである。劇中では訓練兵団、駐屯兵団、調査兵団憲兵団、などと分かれるが、女性兵士が男性兵士に現場レベルで引けを取る描写はない。さすがに政治制度は中世的な王政だったりすることもあり上に行くほど男性ばかりになるが、若い兵士の間に男女での線引が全くない。女性の描写でもエレンを守ると言って最強の兵士となったミカサ。そのミカサと並ぶアニ。食べ物に異様な執着を見せるサシャ、クリスタにどこか同性愛的な態度もみせるユミルと典型的な女性の描写の枠にはまらない。いわゆる典型的なヒロインとしての描写の女性キャラはクリスタぐらいのものである。もちろん例えば鳥山明が恋愛描写が苦手だから「ドラゴンボール」で悟空とチチの結婚を「じゃ、結婚すっか」で終わらせてしまったように、もしかしたら実写映画のような女性描写をしたいのに苦手だから省いていたり、あるいはそれを漫画にする術が追いつかないのかもしれない。でもこの作品の女性描写は現代的な女性を描いている少年漫画としてはかなり稀有な作品であるし、キャラクター的には人気の一因だと思う。
 昨今のアメリカ映画は昔ながらの女性描写を避け練りに練った上で男女だれでも楽しめるように作られている。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」などはその最高峰といえるだろう。観た後にツイッターで製作者の一人が「ハリウッドだけ観ればいい。金で顔叩かれた映画を観ればいい」などと投稿していたが、負けているのは予算でも技術でもなく製作者の古臭い価値観だと思う。最近の映画(特にアメリカ映画)では頻繁に問いただされる「ポリティカル・コレクトネス(PC)」は作品の幅を広げこそすれ、狭めるものではないと思っている。
 僕は比較的高い評価をしているアニメ版の「進撃の巨人」でさえ、ミカサやアニの(原作にない)過剰な女性らしい描写が余計だと思うたちなので、はっきり言ってこの作品の前時代的な女性描写は到底受け入れられなかった。原作が現代的な描写で世界的に受け入れられやすいものとして表現されているのに、なぜわざわざ日本(それもかなりおっさん的な価値観)でしか受けないような描写に変えて自ら門戸を閉ざすのか。原作が最初からそういう風な描写であればまだいいが、そうではないのである。エレンやアルミンたちと違って彼らは日本という壁から出る気がないのではないか?
 エレンの巨人に対する「駆逐してやる」という動機も原作の母親が眼の前で食われて助けられなかったと言うものから、ミカサを助けられなかったというものに変えられている。さらにミカサが無事だと分かった後にミカサが軍の英雄であるシキシマと男女の関係にあることを知らされて絶望しその後人妻兵士にセックス迫られ胸を揉む展開など噴飯物。ミカサが無事だったならそれでいいじゃん!なんだよ別にミカサはお前のものじゃないんだぞ。原作のエレンはミカサに庇護されていることに無自覚に甘えている部分はあるものの、「お前は成績トップなんだから憲兵団にいけ」」といったりきちんとミカサを自分と切り離して別人格と考えることのできるメンタルの持ち主なのに。で、その人妻兵士ヒアナ、水崎綾女が演じているがもう勝手に男性の妄想による偏見的な女性像が一挙に投影されていて、作戦でミスをして部隊を危機においやる女性、子沢山の母親、同僚に迫る好色な女性、と一人で男性の妄想を背負わされていて辛い。しかも色っぽいシーンを見せたら出番終了とばかりに巨人に食われてしまう。
 この「動機の変更」は「母親が目の前で食われた」では弱い、と考えた監督に拠るものらしいのだけど、こんな母親と恋人みたいな選択肢どっちが正しいわけでもなし、原作通りの描写でいいと思う。漫画「HUNTER×HUNTER」だったらハンター試験の会場に付く前に不合格にされる展開だぞ*1HUNTER×HUNTER」第一巻は1998年の作品だがこの映画の価値観は17年以上古い!

 あと僕は師弟関係にある男女が男と女の関係になる展開が個人的に嫌いだということが最近分かってきた。ウィル・スミスの「フォーカス」が良かったのは(詐欺の)師匠にあたるウィル・スミスが弟子に当たる女性マーゴット・ロビーの自分に向けた恋愛感情に気づくが、身を引く。そして後に対等な立場で再会し改めて関係を構築する。その師匠と弟子の関係にきちんと一線を引いている。実写「進撃の巨人」のシキシマとミカサの関係が個人的に気持ち悪いと思うのは原作のリヴァイ(リヴァイ自身は出てこないがシキシマのモデルであるのは容易に分かる)とミカサと違う、というのもあれど、こういう性的にルーズなところもあると思う。あとこれは直接実写版には関係ないのだけれど、原作の方では最近どうやらリヴァイとミカサは同じ一族というか姓を持つ親戚同士であることが判明して、そういうのもシキシマを見ながら思い出されてしまって個人的に嫌悪感。シキシマは格好いいというキャラのはずなのに、全部のシーンが気持ち悪かったな。このキャラが監督の自分を通すフィルターになっているそうで、一言キモい。

スターシップトゥルーパーズ

 で、多分製作者たちが意識したのはポール・バーホーベン監督の「スターシップ・トゥルーパーズ」で、本作は和製「スターシップ・トゥルーパーズ」として作られてたのではないかと思う。

  • 意思疎通が出来ない敵と戦う人類
  • 人類国家は全体主義
  • 最前線で戦う若い兵士たち

という要素はほぼ共通。主人公(リコ=エレン)が恋人(カルメン=ミカサ)をエリート軍人(ザンダー=シキシマ)に寝取られたり、その後別の女性(ディジー=ヒアナ)とベッドシーンになる展開なども共通している(そしてその別の女性が死ぬところも)。あるいは原作をほぼ無視で映画化したあたりも意図しているのかしれない。
 でも当然ではあるが出来は遠く及ばない。「スターシップ・トゥルーパーズ」は事前に主人公と恋人、そして主人公に恋心を持つ女性、の関係が簡潔に描かれていた。そして男女の兵士がまったく遠慮することなく全裸となってシャワーを浴びるシーンがある。男女の部屋も一緒だ。ただ主人公のリコとディジーがベッドシーンを迎えるときにはきちんと互いの意思を尊重して行為に及んでいたし、その時点でリコはカルメンとの別れから立ち直っていてディジーを代替にするわけでもない。大体前線といってもきちんと休息期間の中での行為で急に盛ってセックスに及ぶわけではないのである。実写「進撃の巨人」だとそういう性的行為が「前線で命のやりとりをしている人の生物としての本能」という描写なのかもしれないがそんなの戦時暴力と一緒じゃん。「スターシップ・トゥルーパーズ」は作品全体が皮肉で覆われていて、劇中に出ててくる連邦軍の広報映像など自覚的だが、こちらの実写「進撃の巨人」の方はそのへんが無自覚のような気がする。あと「スターシップ・トゥルーパーズ」のベッドシーンは全然エロくなく作品の邪魔になっていない。エロくないベッドシーン?と思うかもしれないがあの作品においてはもしここで官能的なベッドシーンだったりしたら没入感の邪魔にしかならないだろう。一方実写「進撃の巨人」では露出こそトップをあらわにする「スターシップ・トゥルーパーズ」と違って直接的な描写こそないのに、明らかに色っぽく撮ろうという意図が見えて正直ノイズである。しかもその一連のシーン、ミカサとシキシマの男女関係を伺わせる描写、武田梨奈(ともう一人、渡部秀かと思うが画面が暗くて確認できず)のセックス、そしてそれを見て煽られたエレンに迫るヒアナと立て続けに出てくるのだ(そしてもしかしたらアルミンとサシャも?)。
 僕はベッドシーンやそれに準じるシーンをドラマの中でうまく挿入するにはセンスが必要とされると思っていて、樋口監督は過去に「パシフィック・リム*2の時に「女子のパイロットをローアングルで太腿に注視して撮れ」というようなことをツイッターで呟いていたが、はっきりいってそういうシーンを上手くドラマの中で活かせているか、と言うと全然そんなことはなく突然そういうシーンが挿入されるだけで女性をオブジェとしか見ていないのかなあ、という気がする。はっきり言うとセンスがない。一部によく見られる「娯楽映画にはセックスとバイオレンスがなきゃ!」みたいな意見は僕はまったく組みし得なくて、この作品の場合バイオレンスはあって当然だが、セックスなんてノイズにしかならず、セックスを入れなきゃ、なんて考えは大人どころかオナニー覚えたてのガキの考えだと思う。
 とにかく話しの構造としては「スターシップ・トゥルーパーズ」と似ているのに、観終わった後の感じ方は真逆ではないだろうか。スターシップ・トゥルーパーズ」は1997年の作品だがこの映画の価値観は18年以上古い!

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サンダ対ガイラ

 冒頭ナレーション(予告編では林原めぐみによる綾波レイ風ぼそぼそナレーションでうんざり*3だったのだが本編は別)で世界観の事前説明を終え、ちょっとした日常から超大型巨人の出現。壁が壊されて巨人が中に入ってくる、というながれ。巨人が暴れるいわゆる特撮部分は好き嫌いはあれど頑張っていたしある程度良く出来ていたと思う。個人的には巨人が醜すぎて愛嬌がゼロなのは嫌だし、巨大なゾンビとしての描写も微妙なところ。僕は何度か書いているが原作の巨人描写のすごいところはそれほど外見が常人と変わらないのに(もちろんいろんなタイプの巨人が出てくるのだが)まったく生物としての感情と知能を感じさせないところだと思っている。これが他の作家が描くとアニメにしても外伝漫画にして画がうま過ぎて意思のある生物に見えてしまうのだ。何を考えているかわからない恐怖が薄れてしまう。一方で超大型巨人や女型の巨人などはきちんと知性と人格が感じられ、他の巨人との差異が明確になっている。実写「進撃の巨人」では人が特殊メイクをして演じているが、やはりそれ故に何考えているかわからない恐怖は薄い。最初の襲撃シーンこそ様々なタイプ・大きさの巨人が出てくるが後は大体均一な大きさの巨人ばかりだし。後は皮膚の様子とかがかなり描きこまれて、腹のたるみとかキモさが目立って、でもおっさんに見えるところからいわゆるキモメン・ブサメンをテーマとしたアダルトビデオを見てるみたいだった。あと巨人には性器がないから乳首もない、みたいな説明がされるのだが、実写「進撃の巨人」には多数の女性タイプの巨人が登場する。原作では性器(男根)こそなくても男性タイプの巨人しか登場せず、だからこそ「女型の巨人」が衝撃を持って迎えられるのだが、後編で女型の巨人を出さないとしても、なぜ乳房をもつ女性タイプを投入したのかはよくわからない。巨人は全体的に不快感がたっぷりでそれは(一種のホラー映画として)成功なのかもしれないがどうなのだろう。人を食べるシーンは僕の感覚がおかしいのかもしれないがさしてグロくはないです。ただ汚い。
 超大型巨人はおそらくCGと模型によって演じられているが原作と違ってこちらは知能が感じられない。あとアニメや原作で象徴的な超大型巨人を後ろから俯瞰で全体像を映す描写がない。それで、超大型巨人の一蹴りで壁が崩壊する描写の衝撃が薄い。二度目の登場はなし。
 エレンが変身する巨人はほぼ原作に忠実なデザインで格好いい。一人だけ格闘技の技術を心得た巨人ということで戦い方も異なり、巨人対巨人は終盤のクライマックスとして面白かった。エレンを食べちゃう巨人の不快さは映画イチ。
 立体機動はまあこんなもんかな、という感じ。疾走感や飛び回る快感みたいなものは薄め。これで動くキャラが少ないのと、合成の関係か暗いシーンばかりなので立体機動に使うワイヤー(撮影用の方ではなくね)が目立たないのも難点。もっと昼間の明るいシーンで使って欲しかったな。
 全体として巨人のシーンは「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」が意識されているそうです。ただ黄金期の東宝円谷特撮だけあってサンダとガイラはデザインそのものは不快にさせないものだったんだが。

 この映画の好意的意見として「ドラマはどうでもいいから特撮映画として観れば」とか進撃の巨人ではなく実質サンダ対ガイラのリメイク」、「原作ファンは嫌いだろうけど、原作知らない人には楽しめるだろう」とかあったんだけど、個人的にはドラマを置き去りにした特撮映画など家でその特撮シーンだけ観るとかならともかく劇場で全体を見るときにはありえない意見だし、僕自身は原作ファンなので客観視は出来ないけれど、これは原作知らなくたってつまらないだろ、と思うし、「こっちは『進撃の巨人』観に来てんだよ。『サンダ対ガイラ』作りたいなら最初からそういう企画通せよ」としか思わないですね。

 キャスト、特に若手の俳優陣は頑張っていたと思う。エレン役の三浦春馬も主人公らしい精悍さであったし、ミカサ役の水原希子も似ていた。特に原作で金髪のちょっと小柄な少年であるアルミン役の本郷奏多は男性陣では一番良かった。ある意味一番難しいキャラな気もするし。女性陣ではサシャはほぼ唯一原作に忠実な設定*4で、だからというわけではないけれど演じた桜庭ななみの好演もあって実写版では一番好きなキャラですね(というか原作でも一番好きなキャラなのだが)。桜庭ななみはこの間久方ぶりに放映された「ナニワ金融道」のドラマでの演技が良くて、今後フジテレビがシリーズを続けるならもう中居正広には後衛に下がってもらって彼女を主役にしたら良いと思うぐらいだった。水崎綾女のヒアナは先述の通りダメな男の妄想を背負わされている悲劇のキャラクター。武田梨奈演じるリルは原作におけるハンナとフランツのバカップルをモデルにしたのだろうけど武田梨奈が男と寝ようとしてそれを見て水崎綾女三浦春馬を誘うシーンは古澤健監督の「アベックパンチ」での二人の勇姿を直に見てるだけにこの扱いが可哀想でなりません。何よりこの二人を起用しておきながらほとんど目立ったアクションないってどう考えてもおかしいだろ!
 一番話題の石原さとみ演じるハンジは顔つきやハスキーな声は原作やアニメのハンジ(声は朴璐美)に似ていて良かったが、背は低く石原さとみにしか見えないこともあってハンジの性別不明な魅力は薄い。
 予告編でも出てくるハンジの「こんなのはじめてー」というセリフのシーンとか、邦画でよくあるセリフとセリフの間に溜めを作って「さあ、これから名台詞発しますよ、皆さん準備はいいですか、せーの」ッて感じはやめて欲しいですね。結果として名台詞になるんじゃなくて「これがこの映画の名台詞ですよ」と押し付けられてる感じ、この映画に限ったことじゃないけれど本当辟易する。
 大人組はシキシマの長谷川博己がいちいち気持ち悪いのだが、まあこれは役柄か。全体的に役者はアクションが出来る人もできない人も頑張っていたと思います。演出と脚本が悪い。
 ドラマ部分の細かい展開(巨人が音に敏感だから音を立てる位なら死ね、と檄を発するもその後はほぼ無視、とか立体機動があるのにそれを活かしているのはほぼ一部でなぜ弓矢や斧の方が効果があるように見えるとか)は特に気にならず、というかその辺は映画のご都合主義で済ませられるのだけれど、それ以外が酷すぎてどうでもよく思えてきます。爆弾奪った犯人とかももう気にはならないけど後編で判明するにしても構成が下手だと思う(多分ウォール教信者か)。巨人一本背負いのシーンなんかは僕は原作で巨人がその大きさに比べて異様に軽い、という設定を知っているので別に変には思わなかったけれど、よく考えると逆にあれは原作読んでないとわけがわからないシーンだろうな。
 後編は9月には公開されるので比較的直ぐなんだけれど、現時点ではかなり迷うところ。後編だけ劇的に良くなることは期待できないしなあ。最初から前後編で一本あたり100分で公開するくらいなら3時間あってもいいから一本の映画として公開してくれよ、と思うところだが、あのテンポで3時間あったらそれはそれでとてもつらい。
 エンディングテーマはSEKAI NO OWARIによる楽曲でまあ特に良いとも悪いとも思わず。でもBGM(鷺巣詩郎)含め音楽はアニメ版の方が良かったと思います。ちなみに以前投稿したネタ。

 この映画の辛さを癒してくれたのは「ミニオンズ」でした。バナナ〜♪

*1:主人公ゴンたちは試験会場に赴く途中で老婆に命を助けるなら母親と恋人どっち?という問いかけをされ、母親を選んだ(本当は恋人だが母親ということ答えの方が老婆好みだろうという考え)受験者は不合格になる。正解は沈黙、どちらか選べない、というもの

*2:本当にあの映画はある種の性癖の持ち主をあぶり出す罪な映画だ。作品自体には罪はないのに

*3:林原めぐみ自体が嫌いだとかではないです。ただエヴァでもないのにあのぼそぼそナレーションは嫌い

*4:でも親に口減らしで軍隊に入れられた、みたいな余計な設定付き