The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

 “登れ!” ダークナイト ライジング


 それでは改めて「ダークナイト ライジング」。もうすっかり感想が出揃って逆に周回遅れになってしまった気がするけれど、一応。この映画の突っ込みどころというのはたくさんあるし、矛盾も多いが僕は全然気にならない。それは何よりこの映画が、アメリカンコミックスの映画化であり、真摯に完結編であろうとした結果であり、リアルな物語と言うよりもそれを超越した神話であろうとしたからだ。アメリカンコミックスとりわけDCコミックスが神話的であるというのは昔からよく言われている。神話は神々について詳細な設定がある一方、物語は多少の矛盾を物ともしない力強さにあふれている。僕はこの「ダークナイト ライジング」に似たようなものを感じた。勿論現実を反映した部分はある。このクリストファー・ノーランによる新しいバットマンシリーズ*1はある種リアルさが売りになっている。例えばこの世界にはバットマン登場以前にはヒーローが存在しない(そのためブルースの両親が殺された時に観たものは「奇傑ゾロ」からオペラに変更されている)。また基本的に超常的な現象*2も存在しないことになっているため、誤解されているように思うが、実はこれまでのバットマンの映画化作品でもコミックスに忠実な方だと思う。一般に(おそらく原作を余り知らない人が)このシリーズを批判する際にティム・バートンの2作が引き合いに出されることが多いが実はあちらの2作も映画作品単品としてはともかくバットマンの映画化としてはかなり歪な作品である。「バットマン」においては原作では本名不明なジョーカーに前身が設定され、ブルースの両親を殺したのは若い頃のジョーカーだとされるがこれは映画オリジナル。「バットマン・リターンズ」にいたってはキャットウーマン、ペンギン共にほぼバートンオリジナルの人物造形になっている。勿論僕もこの2つの作品(今となってはジョエル・シュマッチャーの2作も)は大好きな作品だ。ただ、それと同じくらいノーランのシリーズも大好きである。普通にどっちも好きになって構わないと思うのだが、なぜかどれかしか許されない雰囲気があるのは不思議な事だ。
 それと少し似てるのだが、原作コミックスにおいてもアメリカの状況は知らないが日本ではフランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」とアラン・ムーアの「キリング・ジョーク」が神聖視されすぎて少しでもこの路線から外れると「こんなのバットマンじゃない」というという意見が少なからずある。あとでまた述べるが何と言ってもバットマンには70年以上になる歴史がある。デビュー当初の殺人も厭わないバットマン、40年代、連続活劇で日本相手に戦ったバットマン、60年代のTVシリーズ。その時々によって色々と姿を変えてきた(勿論基本となる設定はびしっと守っているのだ)。「ダークナイト・リターンズ」はエルスワールド(正伝とはまた違った異世界の物語)の一つであり絶対ではない。バートンのバットマン2作同様勿論僕もこのコミックス2作品も大好きだが、バットマンはそれだけではないし、それだけであってはならない。というわけでノーラン版を酷評する人は最初から枠を狭めているようにも思えるのだ。
 
 物語は覆面の傭兵ベインのハイジャックから始まる。ズタ袋を被せられた彼らはCIAに脅されるが、見事逆転し、乗せられていた飛行機そのものを破壊する。このオープニングにおけるアクションは「ダークナイト」のジョーカーによる銀行強盗シーンや「インセプション」での最初の夢泥棒シーン同様、鮮烈な印象を与える。この時点でベインや今後について(説明不足なので一瞬何をしているのか分からなくなるが)示される。ハイジャックの主目的であるパヴェル博士が血を取られるのは代わりの死体を博士だと思わせるため(実際半年前に飛行機事故で死んだ、ということにされていた)。そして脱出しようとした際にベインに「ここに残れ(つまり万が一のためにここに残りCIAとともに死ね)」と言われた傭兵はおそらく単なる仲間というだけでなくベインやブルース同様「影の同盟」の一員だったことを示すのではないか。いわば「影の同盟」の死をも厭わぬ狂気を示しているのだと思う。またラスト近くでベインが同様の命令を受けるシーンとの対比だ。
 またベインは「重要なのは計画だ」という。この時点でノーランが前作のヴィランジョーカーと対比させているのは明らかだろう。ジョーカーは「オレは計画なんて立てない」とうそぶく。実際は脳内で綿密に計画をかけているがそれを紙に表したりせず、直ぐに行動に起こすためそう見えるのだろうが、とにかくジョーカーは混沌の使者を騙りその犯罪には物欲的な目的がない。一方ベインも物欲的な目的があるわけではない。最終的に明らかになる彼の目的は復讐と愛である。ジョーカーについて、出さない、触れないことを文句をいう人もいたがこれは制作が始まったかなり初期から「ジョーカーは(ヒース・レジャーの代役を立てて)登場させることも、劇中で言及することもない」といっていたはずである。それがノーラン及び制作陣のヒースに対するリスペクトの表し方であると思う。もしもヒースが生存して、続編での出演も可能だったならそれはそれで内容が変わった可能性は多いにあるがそれは言っても詮無いこと。どちらにしろジョーカーの役割は本質的には爆破ではなくハーヴィー・デントという「ゴッサムの光の騎士」の背中を押して悪の道に進ませること。それに成功した時点で彼の出番は終了だろう。またバットマンがいてこそのジョーカー。バットマンが引退した8年間の間に生きる気力をなくして何らかの形で存在を消したという可能性も考えられる。

 バットマンは前作「ダークナイト」で街の希望のためにデント=トゥーフェイスの犯した罪(警官二人含む五人殺し)を汚名として受け入れる。悪と戦ったデントは「英雄」として祭り上げられ、彼の名を使用した「デント法」によって犯罪者が次々と捕まりゴッサムは一応の平和を手に入れている。物語は「ダークナイト」の8年後である*3。「デント法」については劇中で詳しく触れられていないため「説明不足だ」との評も向けられるがなんとなく想像はつく。おそらく組織犯罪に関するものなら微罪でもすぐに逮捕・収監できるようなものだろう。限りなく合衆国憲法違反ぎりぎりのような法律で犯罪者の権利を無視するようなものであると思う。このデント法によってゴッサムは8年間一応平和であるがその一方で貧富の差が広がっている。
 僕は「バットマンが姿を消して8年」という設定を最初に聞いた時、それでもそれはあくまでバットマンとしての引退であって(マスクのヒーローが姿を消すのは簡単だ。マスクを脱いで一生かぶらなければいいだけだ)大富豪・プレイボーイ・慈善福祉家としてのブルース・ウェインとしての活動は続けているものだとばかり思っていた。実際、プレイボーイ(これこそブルースの真の隠れ蓑だ)はともかく普通に考えればバットマンとして街のチンピラを殴るより福祉家・事業家として然るべき所に効率的に資金を投入するほうがよほど建設的だし、犯罪撲滅実現にも可能性が高い(映画では直接触れられないが当然ブルース・ウェインとしても豪遊する一方そういう慈善活動はしているはずである)。しかしバットマンとしてもブルース・ウェインとしても彼は引退し屋敷(「バットマン・ビギンズ」で炎上し、「ダークナイト」では再建中だった)に引きこもって世俗からも身を引いてしまう。
ノブレス・オブリージュ」。「高貴なものの義務」とでも言うのか。地位の高いもの、富の豊かなものはその地位や財産に見合った社会福祉を心がけるべきである、というようなものか。ブルースがまだ世俗に生きていた時、彼は孤児院に寄付をしたりしていた。ウェイン一族が代々そのような慈善家の家庭であり、ほとんどゴッサムの貴族でありながらウェイン家はその善良さから愛されてきた。「ビギンズ」ではブルースの父トーマスが彼自身の本業は医者だが市民の安い移動手段としてモノレールを建設したりしている(だからその意味でラーズ・アル・グールがモノレールを利用するのは皮肉でもある)。しかし心身ともに傷ついたブルースは隠遁した結果、彼が支援していた孤児院が経営難に陥ったりしている。謂わば彼は「ノブレス・オブリージュ」を行使しなくなったわけだ。
 そんな彼の行動を象徴し、ゴッサムは一応の平和が保たれているが息苦しく、貧富の差が広がっている。証券取引所では背広組が靴磨き(実はベインの仲間だが)にお札を投げ捨てるように払いながら「よし一稼ぎするか」と言ったりする。証券取引所でのテロ行為やあとでブラックゲート刑務所前で演説するシーンなどは間接的に「ウォール街を占拠せよOccupy Wall Street」を表しているのだろう。しかしここでは貴族的な富豪ヒーローバットマンが貧困の側を攻めるという構図になってしまう。
 この映画においてバットマンは二度蘇る。一度は単なるバットマンとしての復活として。そして二度目はすべてを失い、それでも光を求めて真の復活を果たす。この映画においては重要な関係者のほとんどがバットマンブルース・ウェインであると見ぬいているが、それはバットマンがブルース(プレイボーイの大富豪)という仮面を脱いでいるからだ。
 原題の「rises」は「rise of〜」という形で「猿の惑星 創世記」や「アンダーワールド・ビギンズ」に使われているため、ある勢力の興隆というイメージがある。僕は「ダークナイト」で汚名を一身に引き受けたバットマンが再び英雄として人々の賞賛を得る、とかそういう意味かと思っていた。勿論そういう意味もあるのだが、具体的にはより直接的な「登れ!」という事であった。破産し、ベインに敗れ「奈落(ピット*4)」に落とされる。彼はベインによって孤立させられ混乱するゴッサムの現状見せつけられ、それでも絶望せず再び登り始める。文字通り「奈落」の壁を。デシデシバサラバサラ。
 バットマンは「闇の騎士」だがこの作品では光を求める描写が多い。闇の勝負ではベインに敵わないからだ。井戸の底から上を眺めて、その光を太陽や月に見立てる描写は様々な作品でなされている。「リング」シリーズなどその最もたるものだろう。「ライジング」では「奈落」が巨大な井戸のようになっており、ベインによってその光、希望が見えることこそが最大の絶望につながるとされる。かつて脱出に成功したのはただ一人。ブルースは身体を立て直し(原作ではベインによって背骨を折られるがここでは痛めつけられ背骨を歪められる程度だろう)、奈落からの脱出に挑む。幾度の失敗。しかし最後は命綱を外し生身で挑むことで恐怖を感じ、光への希望をつなぐ。
 破産までしてからの復活というのはバットマンより「グリーンアロー」を思わせるがこの二度目の復活でバットマンブルース・ウェインは一つとなる。このあとどうやってブルースはゴッサムまで戻ったの?というのはおそらくこの作品一番の突っ込みどころであるが(「奈落」の場所はおそらく中東)、そんなのは映画のお約束で充分だろう。ただでさえ長い作品にそんな些細な事まで描写してたらいくら時間があっても足りやしないし物語的には明らかにどうでもいい部分だ。

 ブルース以外のキャラクターは基本的に「ダークナイト」を踏襲。アルフレッドはマイケル・ケインバットマンとして復活したブルースを心配する。ここで彼がラストの伏線となるシーンを想像する。ブルースが修行中の7年間、実はもうゴッサムを離れ別のところですべてを忘れて暮らしていて欲しいと。そしてフィレンツェのカフェでふと出会うが互いに挨拶もしない、そんな日を。しかし、バットマンとしての活動に邁進するブルースの苛烈な生き様に彼の元を離れるのだった・・・
 モーガン・フリーマン演じるルーシャス・フォックスはウェイン産業の社長。この8年間で色々大変だったようだ。それでも新兵器となるザ・バットを作るなど老いてますます盛ん。というかザ・バットは蝙蝠というより、甲虫が空を飛んでいるようにしか見えないがあえて、ザ・バットなどと名付ける辺り、前回までの一線引いている態度とは少し変わったか。
 ジム・ゴードンゲイリー・オールドマン。引き続き登場するキャラクターでは一番活躍する人である。前作でバットマンとともにデントの犯罪を隠蔽したがその後ろめたさをずっと背負っている。その反動か警察としての仕事に邁進して家族とは疎遠に(治安的には良くなったので家族が実家に帰ったのはゴードンが仕事にのめり込みすぎたせいとみるのが妥当)。戦時英雄であるとされ平和になった現在、春の人事で首になる予定だったが再び街は不穏な事態に。序盤でベイン一味に捕まり脱出する際、負傷し入院するがその後も綿密に指示、ゴッサムが孤立して後は警官たちをまとめ核爆弾を何とかしようと奮闘する。ラスト、バットマンの一言で正体がブルース・ウェインだと気づく。ほとんどのキャラクターがバットマンの正体に気づいている中、アルフレッドやフォックスを除くと一番付き合いの長いゴードンが知らなかったのはある意味滑稽といえば滑稽だが、彼は正体など気にならないくらいバットマンを信頼していたのかもしれない。正直、このバットマンとの会話で僕の涙腺は決壊した。
 後はなんといってもスケアクロウことジョナサン・クレインだろう。彼はベインによる刑務所の解放(劇中ではブラックゲート刑務所だけだがアーカムも解放したのか)で自由となり無秩序となったゴッサムで私的法廷で裁判長となり、まるでクインテッサ星人のような判決を繰り返している。判決は常に有罪。処分は死刑か追放でどちらにしろ冬のゴッサムの薄い氷を張った川を渡らされる。こういうアーカムなどで捕まった犯罪者たちがバットマンを裁判にかける、というのは原作やアニメで度々見られる展開でトゥーフェイスジョーカーが裁判長や検事(そもそもトゥーフェイスは元検事)、弁護士を務めたりする。はっきり言ってキリアン・マーフィー短時間労働ながら一番美味しい!
 
 新キャラはベインを後述するとしてまずは新米警官であるブレイク。演じるのはジョゼフ・ゴードン=レヴィット。負傷入院したゴードンに代わって警察側の人物として活躍。孤児院出身で今回最初にバットマンの正体に気づいた人物。ラストに後のロビン(あるいはナイトウィング)になることを暗示して物語は終わる。
  キャットウーマンことセリーナ・カイルがアン・ハサウェイ。しかし劇中では泥棒の様子をネコに例える新聞記事が登場するだけでキャットウーマンとは名乗らない。ともすれば地味な俳優陣の中でアン・ハサウェイはそのキュートさで異彩を放っているが、華やかさはうまく映画のアクセントになっていた。最初に彼女のスチール写真が発表されたときは猫耳をつけてない!と変な方向で話題になったものだが、実際はゴーグルを跳ね上げるとちょうど頭頂部に位置してまるで猫耳のようになるというひねったものだった。コスチュームは黒いタイトなもので1966年のTVシリーズ「怪鳥人バットマン」のキャットウーマンを思わせる。
 彼女の相棒というか妹分の女性はおそらく「イヤーワン」などに出てきたホリーで、その辺はかなり原作に近い描写。セリーナの目的は名前と生年月日を入力するだけでその人物のあらゆるデータを消去できる「クリーン・スレート」というプログラムでそれによって前科の多い自分の過去を消そうとしている。そのため間接的にベインに関わり結果としてブルースを破産に追い込んでしまう。
 彼女はどういう方法か議員をメロメロにしてしまっていたりするのだがこのへんは少しポイズン・アイビーのキャラも混じっている?
 新しいウェイン産業の役員がミランダ・テイトで「インセプション」のマリオン・コティヤール。ウェイン産業の乗っ取りを図るタゲットを牽制し、一見ブルースの理解者だと思えるが実は・・・

 ベインは原作では1993年に登場した比較的新しいキャラクターである。そのプロレスラーのような巨体に覆面姿にも関わらず実は知性派で独力でバットマンの正体を突きとめ背骨を折り引退に追い込んだことで一躍重要なヴィランとなった。昨今の特殊技術を用いれば例えば「ハルク」のようなCGの巨体にトム・ハーディーの頭を乗せて表現することも可能だったろう。しかし、あくまでここでは通常の人間のそれ(といっても極限まで極められているが)にとどまっている。とはいえクリスチャン・ベールの逆三角形の引き締まった肉体に比べ、がっしりしたプロレスラーに近い体型ではあるが。トム・ハーディーの声は(加工されているが)素晴らしく、その一言一言が重量感を持って迫ってくる。原作でも後にラーズ・アル・グールのボディーガード兼後継者候補であるウブーを務めたこともあり、映画の中で語られる彼のプロフィールは原作の要素をうまくアレンジしている。ただし、実際には後述するタリアと分け合っているが。
 ジョーカーはバットマンに対して「お前がオレを完璧にするんだ」と言った。いわゆるヒーローとヴィランの関係性。対局に位置するバットマンジョーカーは磁石で言うならS極とN極みたいなものである。互いに引き合う。一方ベインはむしろ「影の同盟」関係者としてある意味似たもの同士である。だから二人は相容れることはできない。
 批判の中には彼のゴッサム統治の方法がよくわからない、ということがあったりするが、彼の目的はゴッサムの支配にあるわけではない。本気で革命を志しているわけではない。ブラックゲート刑務所の前での演説は明らかに他の時に比べ芝居がかった喋り方をしており、これが演技であることを伺わせる。結構本気でベインが革命を志しているかのように勘違いしている人がいて意外なのだが、その前に「奈落」でバットマンに言った通り彼の目的は混乱し腐敗するゴッサムを見せつけ、更に最終的に全滅させることでブルースを絶望させることである。それを事前に述べているのにここでベインを革命家だと思ってしまうのは「ダークナイト」でジョーカーの傷の由来を信じてしまう人を笑えないのではないか。
 終盤になって真の黒幕がラーズ・アル・グールの娘タリア、〜ミランダ・テイトとして活躍していた〜であることが判明する。タリアについては事前に予想してはいなかったものの、ミランダの動きについてはベインに呼ばれていたり、動きに不自然なところがあったり怪しい人物であることは示唆されている。またこれまでベインであるとされ語られてきたプロフィールが実は彼女のものであったことが分かる。タリアとベインの真の目的はラーズ・アル・グールを殺したバットマンへの復讐(まあ、「殺しはしない。でも助けもしない」は実質殺したと思われてもしょうがないよなあ)。ただ、このへんは僕にも不満はあって、ラーズ・アル・グールへの複雑な愛憎を示すのなら、単に「親を殺した相手への復讐」よりも「親が後継者と認めたバットマンを打倒することでラーズを超える」としたほうが良かったのではないかなあ。実際原作においてもビギンズにおいてもラーズ・アル・グールはブルースを後継者として考えていたようだし。父に認められていながら父を裏切ったバットマンの打倒、というほうが深みが増す気はする。
 
 「バットマン・ビギンズ」まではまだバートン版の影響が強い、ゴシック建造物が乱立する箱庭的なゴッサムであったが「ダークナイト」から主なロケ地をシカゴにし、ただ暗いだけではない近代的な高層ビルが多いノーランならではのゴッサムが確立する。バートンのゴッサムは閉じていて「トゥルーマン・ショー」の街のような雰囲気すらあるがノーランのバットマンはきちんと他の世界とつながっていると感じられる(ゴッサム以外の地域が登場するせいもあるだろう)。「ダークナイト」でブルースがウェイン邸の屋敷再建中にペントハウスで暮らしていたのは実は70年代のバットマンの設定である。ゴッサムの設定も70年代の描写に近いし、実はノーランは80年代以降のものより、70年代のデニス・オニールやニール・アダムスの作品群が好きなのかもしれない。
 
 ラスト、バットマンは核爆弾とともにザ・バットでゴッサムを離れる。爆発する爆弾。きのこ雲。アルフレッドが戻り、ブルースの墓の前に立つ。このあとアルフレッドが「私は裏切ってしまった」と嘆くシーンがあるが、実はここではブルースの墓ではなくブルースの両親トーマスとマーサの墓に向かって泣いているのである。
 ゴードンは警察に残り、ブレイクは警察をやめる。互いの道を見出す。フォックスのザ・バットの自動操縦の件や失われた真珠のネックレスの件でエクスキューズが付き、アルフレッドは冒頭で述べたようなフィレンツェのカフェに向かう。そこにいるのはブルース。互いに軽く会釈をするがそれ以上は関わらない。ブレイクはバットケイブを受け継ぐ。そしてエンドクレジット。
 最初に見たときは「インセプション」同様ラストはブルースが生きているのか死んでいるのか(アルフレッドが見たのは幻か本物か)ぼやかしているのかな、と思ったのだが二回目の鑑賞でブルースは生きていると確信。フォックスが実は自動操縦が可能になっていたと知るのもそうだが、実はフィレンツェではブルースはセリーナ(画面の焦点はブルースに合っていて微妙にぼやけているが)と一緒に居てなおかつセリーナの首には母親の形見である真珠のネックレスが。だから、確実にブルースは生きている。生きてブレイクに後を託し、アルフレッドが望んだ生活を送っているのだろう。
 すると墓のシーンの意味合いも変わってくる。アルフレッドはブルースに対してではなくトーマスとマーサに対して実質ウェイン家を潰してしまい、ブルースをゴッサムから離れさせたことを謝罪しているのだろう。アルフレッドがブルースの元を離れてからラストまで出番がないが、あるいは「奈落」を脱出したブルースをゴッサムまで連れて帰ったのはアルフレッドかもしれない。
 アン・ハサウェイキャットウーマン、あるいはジョセフ・ゴードン=レヴィットによるロビン(またはナイトウィング)のスピンオフとかいう噂もあるようだが、個人的にはこれで有終の美を飾ったと思っているので、余計な要素はいらないかな。特にロビンはノーランやベールが絶対に出ない!と言っていたので意外ではあったし、映画のラストでナイトウィングを暗示させるのは良かったがこれが具体的になっちゃうと原作と離れすぎてしまうような気もする。キャットウーマンにしてもせっかく過去の犯罪歴を消し、ブルースと悠々自適な生活に入っているのだしなあ。まあ確かにアン・ハサウェイは一作で姿を消すのは惜しいキャラではあるが。
 最初の感想では「指輪物語 王の帰還」と並ぶ最高の完結編、最初から三部作として作られたのではなく原作もない一作ごとに作られた作品であること思うとこの出来栄えは奇跡的、と書いてけどその思いは(ある程度批判的な意見を聞いた後でも)変わらない。その気になれば「ダークナイト」路線でいくらでもシリーズを続けることも可能だったろうし、あえて決して評判の高くない「ビギンズ」にきちんと決着を付けた姿勢は高く評価したい。
 一応言っておくと僕はノーランだから無条件で賞賛してるわけではない。ノーランが製作ザック・スナイダーが監督をするスーパーマンの新作「マン・オブ・スティール」は非常に不安(スーパーマンのイメージと二人の作品が一致しないし新コスチュームが正直僕はは苦手だ)。

Dark Knight Rises

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バットマンvs.ベイン (ShoPro Books)

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 伝説が終わり、神話が始まる・・・

*1:最終的には「ダークナイトシリーズ」とでも呼ばれるんですかね

*2:ラーズ・アル・グールの不老不死設定やクレイフェイスなどの超常的ヴィランも存在しない

*3:冒頭のベインによるハイジャックはその半年前

*4:この名称はラーズ・アル・グールが不老不死のために利用する「ラザラス・ピット」からの引用か