The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

最初が最後のピーク? ラ・ラ・ランド

 今年のアカデミー賞で話題になった作品。僕も「ミュージカルでエマ・ストーン主演なら観ないわけには行くまい」とは思っていたのだが、なんだかどうにも観る機会を逸してしまい、かなり遅れてしまった。ただ正直予告編を見た限りではあまり自分の好みではないな、という思いがあってそれで足が遠のいたのも事実。でも観ました。その上であえて言いますとやはり僕好みの作品では無かったです。エマ・ストーンライアン・ゴズリング主演、デミアン・チャゼル監督「ラ・ラ・ランド」を観賞。

物語

 ロサンゼルス。オーディションに落ち続けている女優志望のミアとピアノの腕は確かだが自身のジャズへのこだわりのため何事もうまくいかないセブが出会った。最初の出会いは最悪だったが、やがて(紆余曲折あって)恋に落ちる。
 ミアは自分で脚本を書いて一人芝居の舞台を計画、セブも自身の音楽性とは合わないが旧友のキースの誘いを受けて彼のバンドに参加する。生活は豊かになったがやがて二人の生活はすれ違うように…

 監督デミアン・チャゼルの前作「セッション」は実はまだ見ていないのだが(場外の評論家による乱闘はちょっと読んだ)、こちらもやはり予告編を見た限りだと僕好みではなさそう、という感じ。予告編で観た「ラ・ラ・ランド」の印象は「理詰めで作られていてあんまり感情に訴えてこなさそう」というもの。もちろん映画のミュージカルなんて歌と踊りとカメラワークとが複雑に作用しているわけで、きっちり絵コンテや編集、カメラワークを計算して作られているはずで、その意味では全てのミュージカル映画は理詰めであるはずなのだが、なんだか音楽のエモーショナルな部分が感じられなかった。
 ストーリーは単純。ショービジネスを舞台に才能はあるけれど恵まれない男女が出会い、恋に落ち、葛藤する。確かに一つの映画としてはペラッペラだが、それは別にいいのだ。「ムーラン・ルージュ」だって突き詰めれば同じような話だ。ミュージカル映画においてはむしろ複雑な物語は邪魔でしかない場合もある。強力な音楽があればそこで歌い上げられる感情の訴えによって単純なストーリーは単純さ故に力強さを増す。
 しかしこの「ラ・ラ・ランド」はミュージカルとしての音楽性もイマイチだと思う。音楽そのものは良かった。セブによって何度も奏でられるメロディーは多少飽きが来るものの作品のテーマとして機能している。ただミュージカルナンバーとしては良かったのは冒頭ロサンゼルスのハイウェイで起きるモブによるナンバーと、その後のミアとルームメイトによるナンバー。この2つがピークであとは盛り下がる一方。記憶が確かならふたり以上の掛け合いで行われる楽曲はセブが自分の部屋でピアノを弾き語りするシーンが最後で、その後にミアがオーディションで自分語りをする曲があるだけ、両方共バラードなため映画としての盛り上がりに欠ける。最初のハイウェイのシーンなんて「この感じで最後までテンションが続くのなら期待できる!」と思ったんですよ。でもここがピーク。タイトルの「ラ・ラ・ランド(LA LA LAND)」はロサンゼルスの別名であると同時に「現実離れした世界、精神状態」という意味を持つ言葉だそうで、最初の高速道路の渋滞と暑さから(季節は冬なんだけどロサンゼルスなので)逃れるようにモブの人たちが歌い踊るシーンなんてまさにこのタイトルに相応しい始まりだったんだけどなあ。あるいは音楽性はイマイチでも、通常の作品のような社会性を帯び、ミュージカルでなく普通の劇映画として優れている、という場合もあるだろう。
 主人公二人もスタート地点で「嫌なやつ」として始まっているので、感情移入するまで時間がかかる。特にセブは自身の理想とするジャズ、ジャズバーなどにこだわっていて他の音楽を見下しているフシがあるのでキツい。ミュージカルではない(劇中でも演奏しているシーン)がパーティーの80年代カバーバンドによるa-haの「テイク・オン・ミー」だったり、あるいはキースのバンドによるライブシーンが音楽の盛り上がりとは別に「不本意に嫌々やってる音楽」という位置づけのため辛い。ミアの映画・俳優としての視点もジャズほどではないしろ「過去を理想とし、現在はダメ」という価値観があったりする。後述するが「幻想のハリウッド」という感じだ。
 あとこの映画の欠点はドラマ部分とミュージカル部分があまり一致していなくて普通の台詞のやりとりでドラマを進行させた後、締めで歌も、ッて感じになってる部分がある。何度かあるミアとセブの口論シーンなんてその口論を掛け合いで歌として魅せてくれよ!と思うのだが普通にドラマとして演出されてしまう。そこで歌わないでどうする?

 映画を事前に見る前に話題になってたと思われるのが映画館でのシーン。セブがミアを「理由なき反抗」のリバイバル上映に誘うのだが、ミアは当日に恋人(この時点ではまだミアとセブは付き合っていない)との食事があったため遅れる。すでに上映の始まっている映画館でミアは一番前スクリーン前に立ちセブの姿を探す。このシーンが「映画館のマナーが悪い」みたいな感じで話題になっていたのだが、僕はここはそんなに気にならなかった。実際の上映環境は分からないけれど、アメリカ映画で出てくる映画館シーンってわりとうるさいしマナーが悪いイメージもあるし、その意味ではここで描かれてるのはまだ全然マシではないか。他の客もそんなにうるさくしないイメージ。後はミュージカルなんて言ってみれば全ての状況が主演二人に奉仕するためにあるようなものなのである。だからこの二人が劇的な出会いをするために他の客が割りを食うくらいは普通。なんならここで勢い良く抱き合って他の客が拍手するぐらいあっても良かった。なのでその後の(理由なき反抗のロケ地でもある)グリフィス天文台に忍び込む(でいいんだよね?)シーンも気にならず。ただ、映画館で「理由なき反抗」の上映中にフィルムが焼け付いてしまったり、その後その映画館が潰れている描写なんかは少しイラッとした。
 ラストは5年後。二人はそれぞれ成功しているが今は別れており、ミアは結婚して子供もいる。夫とふと立ち寄った店がセブの店で、ここでセブが客であるミアを見て、例のテーマ曲を演奏する。あれもう終わり?予告編であったシーン(出会い頭と思われる二人が勢い良くキスするシーン)、無かったよ、などと思って嫌な予感。やめてよ、結婚して夫も近くにいる場面でもしかしたらアレが起きるの?とか思ってたら、そこからキスから始まってすでに観たシーンの、でも全てが上手くいったであろうIFの世界を見せられる。なんだろういきなり時間改変SFに突入したのかと思ってしまった。音楽の力は凄い!と言ったってそこまでじゃねえだろ(特にセブの楽曲は)!ここでも歌はない。なんならこのシーンにエンドクレジットかぶせていればまだましだったなあ、と思うのだけれど。その後再び現実に戻り二人はアイコンタクトだけして別れる。そして終わり。

 僕は映画を観ながら最近の作品では「バードマン」を連想した。あれも巧みな技術を駆使し、映像的には優れていたが、テクニカルすぎてイマイチ感情に訴えてこない作品だった。「ラ・ラ・ランド」も映像的に凄いシーンもあるけれど、全然ぴんとこない感じ。
 あるいはやはり「バードマン」もそうだが、アメリカ出身でない監督が虚構溢れるブロードウェイやラスベガスのショーなど幻想のショービジネスを舞台にした映画を創り出すことがある。オランダ出身のポール・バーホーベンによる「ショーガール」とか。この「ラ・ラ・ランド」も描かれているハリウッドは実際のものというより「古きよき幻想のハリウッド」という気がしたが、このチャゼル監督アメリカ出身なのだな。パリで脚本無しでロケする映画、なんて実際ありえるのか?と思うし。香港映画なら脚本ないって言われても「だろうね」って思って気にならないけど。
 僕はミュージカル映画というジャンルをこよなく愛するけれど、それはすべての作品を全面肯定するものではない。最後の大花火というか盛り上がりに欠ける構成はミュージカルとしては欠点だと思うし、音楽によって物語が補完できていない。正直僕はダメでした。
 最も僕はミュージカル映画好きと言っても最初が「ウェスト・サイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」(両方共ロバート・ワイズ監督だ!)が出発点で、実はこの2作は一般にアメリカミュージカル映画の黄金期と言われる50年代の作品とはかなり趣が異なる作品。そして60年代の作品を出発点としている僕はその50年代の作品は結構苦手である。「ラ・ラ・ランド」は多分に50年代の作品を意識していると思わしき演出・描写も多く、その点で僕と合わない作品ではあったのだ。僕がつらつら書いたミュージカル映画とはこうあるべきだ!みたいなのもあくまでオレ基準なのでいや違う!と言われればそれまでだしね。
 いっその事、スマートフォンを出すのをやめて、微妙に年代を特定させないようにすれば良かったのになあ、と思う。十数年後、あるいは何十年も経てば分からないけれど、現時点でスマホって特に強く現代を意識させちゃう小道具だと思うので、こういう作品ではなるべく劇中で出さないほうが良いと思う。

ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック

ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック

 音楽は(映画の中での構成を気にしなければ)良かったです。本人たちが歌っているのも吉。
 映画は僕には合わなかったけれど、これは監督の思い描くミュージカルと僕の好きなミュージカルのタイプがかなり違う、つまり出来不出来よりも相性の問題も大きいとは思う。

あと、フロック・オブ・シーガルズの「I Ran (So far Away)」バカにすんじゃねえよ最高にかっこいいじゃねえか!(聖闘士星矢のアメリカでの放送で主題歌になってたらしいのだけど詳しいこと不明)。
フロック・オブ・シーガルズ~ベスト

フロック・オブ・シーガルズ~ベスト

 ここ最近エマ・ストーン出演作品があまり楽しめなくてツラい…(エマ・ストーン自体はいつも良いんですけどね)

”死の天使”映画の傑作! ザ・コンサルタント

 例えば僕の好きな映画にトム・クルーズの「アウトロー」があって、また感想書けなかったけど、キアヌ・リーヴスの「ジョン・ウィック」、デンゼル・ワシントンの「イコライザー」なども大好きなアクション映画だ。これらはチョットとした共通点があって、それは

  1. 一見普通の人が、
  2. 実は超凄腕で、
  3. 過去はあんまり明らかにならないが
  4. 独自の価値観で悪党をぶちのめす!

という作品群。更に重要なのはその「一見普通の人」を名だたる大スターが演じているということ。無名の新人や名優だけど渋い系ではなく、もうスーパースター級の売れっ子が主演なのに、劇中ではそういうオーラを極力出さない作品。最近の作品で上記3作に準じるのだとウォン・ビンの「アジョシ」やライアン・ゴズリングの「ドライヴ」なども当てはまるかもしれない。
 そういった作品を僕は勝手に「死の天使」が出てくる作品と呼んでいるのだが、今回もそんな「死の天使」が活躍する作品。ベン・アフレック主演のアクション映画「ザ・コンサルタント」を観賞。TVでCMやってた時点では全く興味はなくて、映画の日にとりあえず何か観ようと思って消化試合のように観た作品ですが、現時点で今年1位です。

物語

 財務省の犯罪対策本部が追っているのはマフィアのマネーロンダリングを手がける会計コンサルタント。彼は後ろ姿だけは残しても決して正体を見せなかった。
 田舎町で公認会計事務所を構えるクリスチャン・ウルフ。彼は今日も愛想笑い一つせずに農場を営む老夫婦の税金対策を見事にやってのけた。その農場で遠距離から見事な射撃の腕を披露するウルフ。実は彼こそが財務省が追う「裏社会の会計コンサルタント」だったのだ。
 ウルフはハイテク義手や義足を扱う「リビング・ロボ社」からの依頼で使途不明金の調査を依頼される。ウルフはたった一晩で15年分の帳簿をチェックし、見事に洗い出す。しかしウルフは社長から解雇されてしまう。最初に使途不明金の存在を指摘したデイナが狙われ、ウルフも農場で狙われるが追手を返り討ちにする。
 ウルフは高機能自閉症スペクトラムであり、将来を心配する父親からありとあらゆる戦闘術を叩きこまれていたのだった。デイナを守るためロボ社の創立者ブラックバーンの屋敷に乗り込むウルフ。しかしそこにはブラックバーンが雇った凄腕ブラクストンが待ち構えていた…

 先ほど上げた「死の天使」作品のうち、最も神話性が高いのはキアヌの「ジョン・ウィック」だと思うのだけど、あの作品はもう半ば俳優としての存在がファンタジー化しているキアヌ・リーヴスに拠るところも大きいと思う。過去は断片的に語られるのみ。愛すべき女性は物語開始時点ではすでに亡く、形見の愛犬を殺されたという(悪役側から見れば)些細な理由で全滅させられる。敵対する組織の首領などは最初に相手がジョン・ウィックだと知った時点で怯え始め、途中では捕まえて殺す寸前まで言っても焦り続ける。最後もうダメだと分かった時点で開き直るが、どんなにジョン・ウィックが傷めつけられても最初のアドバンテージが動かない。またホテルのオーナーや死体を片付ける男(デヴィッド・パトリック・ケリー!)など存在自体がリアルと言うよりは半ば幽界に属しているようなキャラクターも多くリアルなアクション映画とファンタジーの境目のような作品だったと思う。
 この「ザ・コンサルタント」はそこまでファンタジーというわけではない。主人公ウルフの過去も丁寧に回想される。ウルフと同じような子供たちを集めた施設から始まって、母親が出て行くシーン。その後アジアの何処かの国でウルフとその弟に格闘技を習わせる父親。そしていじめっこに復讐させるシーン。こういうシーンが続くがただ回想というだけでなく、上手く伏線になっている。
 原題「THE ACCOUNTANT」はズバリ「会計士」なのだが、そのままでは訳してもカタカナ邦題もわかりづらいためか邦題は「ザ・コンサルタント」に「会計コンサルタント」から来ているのだろう。コンサルタントには会計以外のものもあるが、まあこれは悪くない邦題かな、と思う。
 主人公ウルフを演じるのはベン・アフレック。ご存知新バットマンに旧デアデビル。表情が豊かと言うよりは何考えてるかわからない茫洋とした演技をする印象だが、この人も紛うことなきスターであることは変わりない。もしもこれがベン・アフレックでなく他のたとえもっと演技がうまくても知名度の低い俳優が演じていたら映画自体の印象が大分変わるだろう。あのベン・アフレックが演じているからちょっとしたシーンも深み(というかおかしみ)が出ると言ってもいい。毎日同じルーティーンで同じ作業をするおかしさ、財務経理を検証する作業の前に同じマジックを何本も並べるシーンのおかしさ。秩序を乱されることに過剰に反応するも、いざ集中すると平気でホワイトボードからはみ出してガラス壁にどんどん書き出していくシーンの面白さ。ちょっとしたシーンが全て映画としての楽しさにつながっていく。もちろん脚本や演出も素晴らしいけれど、これらのシーンとか何よりベン・アフレックが演じているから面白さが倍加していると思う。

 ウルフのライバルにあたるブラクストンを演じるのはジョン・バーンサル。「ウォーキング・デッド」のショーンであり、(僕はまだ見ていないが)ドラマの方の「デアデビル」のパニッシャーである。ちなみにベン・アフレックは映画のデアデビルでもあるので歴代デアデビルと共演。このブラクストンが面白くて結果として言えば彼はウルフの弟である。回想シーンでは自閉症を患うウルフの唯一の友達と紹介され、ウルフ同様父親から戦闘訓練を受けていたものの、劇中には本編では全然登場しない。だから映画を観ながら色々予想を立てたりした。実はウルフはこの弟で、兄が死んでしまってその自責の念から兄に成り代わっているのではないか?とか。でも実際はライバルであったブラクストンこそ弟であった。ではこの兄弟はなにか仲違いをしたのか?と思ったらそういうこともないではないのだが、結局は「なんだよ、兄貴じゃん!」であっさり仲直り。これまで巻き添え食って死んだブラクストンの部下や、ブラクストンの雇い主であるブラックバーンならずとも「は?」となる展開だがそれがいい!この自分たちの中での確固たるルールが存在し、世間一般のルール(普通に法律だとか、雇い主のことを守るとか)は完全にその下に位置する価値観も愉快。現実にこんな兄弟が存在したら恐怖以外の何物でもないとは思うが、フィクションの中ではとても良い。

 ヒロインはアナ・ケンドリックで最初に登場した時は子供か!と思うぐらい小さく感じたのだが、一応恋愛っぽくならないでもないが、どちらかと言えば恋愛対象というよりも庇護すべき対象だったから守ったという意味合いが強い。このへんも「死の天使」作品に共通。
 他にJ・K・シモンズが財務省犯罪捜査部の局長を、シンシア・アダイ=ロビンソンがその部下としてウルフを探る役を演じている。どちらかと言うとこの二人を通してウルフの正体が観客に知らされている形なのだが、シモンズからロビンソンへ世代交代する過程も上手いと思う。
 後はジェフリー・タンバーがウルフの「裏の会計」としての師匠を演じている。この人は「ヘル・ボーイ」シリーズ2作でFBIのマニング局長を演じていて、印象としては「腹に一物抱えているけど、なんか憎めない人」。今回もそのイメージに違わずいわばウルフに「悪を指南」したわけだが、やはり憎めない。で、このジェフリー・タンバーが出てきた時、とっさに名前が思い出せなくて代わりに浮かんできたのがジョン・リスゴーだったのだが、直後にそのジョン・リスゴーも出てきてびっくりした。今回は一見良い人そうで実は……ッて感じなのだが、最終的には兄弟に振り回されたかわいそうな(でも別に同情はしない)人ってい印象に落ち着いたなあ。
 トム・クルーズの「アウトロー」は主人公に対すす設定説明が不足していたり、推理としての真実の解明より物語の進行を優先していて、「あれ?」と思うことが多く、それによって生まれる不親切な部分がある種の魅力であったりする(僕はその部分が好きだったが、やはりだから苦手だという人もいるだろう)。それに比べるとこの「ザ・コンサルタント」は結構かっちりパズルのピースが一処に当てはまっていく作品で最期のピースをはめて全体像を見た時に「ああ、これだったのか」と分かる理想的な造りをしているとも思う。

 アクション映画として見た場合、特に派手さは最後までないのだけれど、逆にその淡々としたアクションもウルフのキャラクターを上手く表現しているようで映画にあっている。
 そして最後まで見た時に分かるオチも見事。とにかく現時点で今年1位。オススメ!

Accountant - O.S.T.

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アウトロー [Blu-ray]

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アジョシ スペシャル・エディション(2枚組) [Blu-ray]

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ドライヴ [Blu-ray]

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「死の天使」映画群。次は「ジョン・ウィック2」だ!

サイケデリック・ウィザード! ドクター・ストレンジ

 昨年はマーベルの映画は3本。うち2本は20世紀FOXX-MENユニバースに所属する作品で(今年はウルヴァリンの最終作「LOGAN」が待機中!)、MCUは一本きり。どちらかというとDCコミックスのDCEUの作品のほうが勢いがあった気がする(ただ瞬間最大風力こそ凄かったけど、作品評価的にはまさにカオスな感じだったが)。その一本のMCU作品は「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」で、これは最高によく出来ていたけれど、これまでのシリーズの(地球での)集大成のような作品だったので、とっつきにくいと思った人もいるのではないか。もうMCUも13本めで、更にTVシリーズなどもあるので追いつけない、という人も多いと思う。そんな貴方に朗報!再び入門編というか、一から新しいヒーローの登場です!余計こんがらがるだけかも、という気もするけれどとりあえずMCU14本目、「ドクター・ストレンジ」を観賞。フェイズ3も2本目。マーベルのロゴタイトルも新しくなったよ!

物語

 神経外科医スティーヴン・ストレンジは今日も手術中に音楽をかけながら鼻歌交じりで難しい手術をやり遂げた。同僚の医者がさじを投げた患者も見事に手術成功させる天才だ。まさに神の腕を持つストレンジだが、性格は傲慢。自分勝手で派手好き。その日パーティーに出席するため雨の中、自動車を走らせていたストレンジは車の中で自分に見合う患者を選んでいた。一人の患者に興味をいだいたその時、事故を起こしてしまう。一命をとりとめたものの両手はボロボロ。リハビリで私生活レベルならなんとかなるもののもはやメスを握ることは出来ない。自分の唯一の拠り所を失いストレンジは自暴自棄になる。
 その時かつて決して歩けない状態から元気に復活した者の噂を聞き、その男のもとを訪れる。物理的手段に希望を失った彼が最後に望みを託したのは奇跡。ネパールはカトマンズにあるカマー・ダージこそストレンジの希望を叶えてくれるだろう。
 カマー・ダージを訪れたストレンジはそこでエンシェント・ワンと彼の弟子たちと出会う。エンシェント・ワンにもう一つの世界を見せられ弟子入りしたストレンジ。最初は戸惑いつつもメキメキと力をつけていく。しかしそんなエンシェント・ワンたちを狙う者がいた。かつての弟子カエシリウスだ。ストレンジが秘宝アガモットの目を手にとった時、カエシリウスが急襲する。一大魔術合戦が始まった!

 MCUフェイズ2の最後を飾ったのはちょっと小さな物語「アントマン」だったのだが、個人的にこの「アントマン」は増えすぎたMCU世界への再入門編だと思っている。だから多分意図的に1作目である「アイアンマン」と同じ要素が沢山見受けられた。天才科学者の社長ヒーロー(トニー・スターク&ハンク・ピム)VS会社を自分のものにしようとする幹部(オバディア・ステイン&ダレン・クロス)という構図や敵の力も主人公の技術に由来するところとか。ただ主人公のスコット・ラングはその相関図から自由だったのが特徴だったが、フェイズ1とフェイズ2は「アイアンマン」と「アントマン」で最初と最後を挟むことでひとつの結末を見たと思っている。
 フェイズ3はその最初から「シビル・ウォー」でユニバースの根底を覆す大騒動となったわけだが、逆に2本目はちょっとクールダウン。新しいヒーローで再び間口を広げる。「アントマン」と「アイアンマン」は人物相関図が似ているが、「ドクター・ストレンジ」は「アイアンマン」と主人公の設定が似ている。傲慢で自己中心的、天才肌で派手好きなヒゲのダンディ。ともに深手の重症を負い、その対策として力を獲得、それを活かすためにヒーローとなる。ただ違うのはアイアンマンが徹底的に物理的な存在だとすれば、ドクター・ストレンジは力の源に魔術を当てていること。
 個人的には今も評価が難しいのが「アイアンマン3」で、ここでは魔法の指輪をもつヴィラン、マンダリンが売れない役者が演じる傀儡、という設定にされてしまっていた。「マイティ・ソー」の神話的な世界観を経た上でならマンダリンも十分本来の設定で活躍できたと思うのだ。またここで魔術の要素を見せておくことは、この「ドクター・ストレンジ」へのちょうどいい伏線にも出来たのではないか、と思うと返す返すも惜しい。

 伏線といえば、ドクター・ストレンジは名前だけはすでに登場済みで「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」でシールド(実はヒドラ)のインサイト計画の対象者としてトニー・スタークやリベラル系の大学の学生などと並んで名前が挙がっていた。僕はてっきりもうこの時点でスーパーヒーロードクター・ストレンジとして活躍していて、今回の作品はその冒頭部分は過去なのかな、と思ったけれど、もちろん事故に遭う以前は多少過去だけれど、ヒーローのデビュー戦だった本編は「シビル・ウォー」の後の物語ということで「ウィンタ・ソルジャー」の時に名前が挙がっていたのはまだただの天才外科医スティーヴン・ストレンジとしてのようだ。今作の冒頭ではただ傲慢なだけの人物にしか見えないが、その歯に衣着せぬ物言いは危険分子扱いされたのか。ちなみに社交的であり、セレブのパーティーなどにも出席していたストレンジ。多分ヒーローとなる以前からトニー・スタークとは顔見知りだとは思うんだけど、互いに互いのことを「いけ好かないやつ」って思ってそうね。今後当然共演もあるでしょう。
 ちなみにきっかけとなる交通事故がトニーの時と違って100%ストレンジの自業自得というのは驚きましたね(その時見ていた患者のカルテはもしかしたら今後関わってくるのかもしれないが)
 ドクター・ストレンジを演じるのはベネディクト・カンバーバッチで、今や世界のセクシー俳優。「裏切りのサーカス」で観た時*1はやあ、個性的なルックスだなあ、という感じだったけれど、今や普通に美男子に見えるから不思議だ。現代を舞台にしたTVドラマシリーズ「SHERLOCK」のシャーロック・ホームズとしても知られていて、本作では本来スケジュールが「SHERLOCK」とバッティングして出演が無理だったのを、監督が「ストレンジにはベネさんじゃなきゃダメだ!ベネさんのスケジュールが空くまで撮影は延期!」となったという。その甲斐あってかコミックスのイメージも残したまま見事にドクター・ストレンジのキャラクターをスクリーンに刻んだ。
 とは言っても原作コミックスのドクター・ストレンジに関しては僕もよく知らない。もちろんマーベルでは重要なキャラクターで、多くの作品で登場するけれど、彼単独の作品はあまり知らないからだ。パンフレット等による解説を読むと今回の映画は長い歴史の中でいくつか語られたオリジンを上手くアレンジしているのだという。ちなみにDCコミックスにもヒューゴ・ストレンジというキャラクターがいて、通常マーベルとDCで同名のキャラが設定も似ていたりするのだけれど、こちらは真逆。バットマンの最古参のヴィランの一人でまさにマッドサイエンティストという感じ。TVシリーズ「GOTHAM」では顔で笑って目が笑ってない「ジュラシックパーク」シリーズのマッドサイエンティストでもあるB・D・ウォンが演じてます。
 今回の「ドクター・ストレンジ」はかなりデビューした時期の60〜70年代の雰囲気を残した作品となっている。他のマーベルの多くのキャラクター同様ドクター・ストレンジも1963年のシルバーエイジデビューなのだが、MCUに関して言えばキャプテン・アメリカを除く他のキャラクターは特にそのデビュー時期の雰囲気を残していないが、今回はかなり60〜70年代の有り体に言えばヒッピー文化の匂いを残している。エンシェント・ワンに最初に掌底をくらい幽体離脱のような状態に陥った時とか、極彩色に指先からまた手が生えてくるようなトリップしたような映像が続く。最後のドルマムゥとの無限に繰り返す対峙する宇宙も極彩色。とにかくサイケデリックである。

 他のキャストはストレンジの同僚でかつては恋人だったクリスティン・パーマーにレイチェル・マクアダムズ。この人はガイ・リッチー版の「シャーロック・ホームズ」でアイリーン・アドラーを演じた人で、その時はアイアンマン=ロバート・ダウニーJrのホームズに対してヒロイン(といっても一筋縄ではいかないタイプ)だったのだが、今度はTVの「SHERLOCK」のホームズを相手にすることに。と書いてて思ったのだが、今後アイアンマンとドクター・ストレンジが一緒に出てきたらホームズが揃うことになる。是非今後ジョニー・リー・ミラー(やはり現代を舞台にしたシャーロック・ホームズものであるTVシリーズ「エレメンタリー」のホームズを演じた)もMCUに参戦して三大ホームズ勢揃いして欲しい。ちなみにミラーとベネディクト・カンバーバッチは舞台の「フランケンシュタイン」でヴィクター・フランケンシュタインと怪物の両方を互いに交互に演じた間柄です。
 ストレンジの師匠になるエンシェント・ワンにはティルダ・スウィントン。坊主姿に黄色を基調とした僧俗という感じで華奢ながら神秘的に演じている。穏やかな中にも時に厳しさが垣間見えるのは見事だが、このキャラクターはコミックスでは東洋人の男性であり、ホワイトウォッシュだとか騒がれた。マンダリンしかり「白い神」ヘイムダルを黒人俳優にしたのもしかり、MCUたまにこういうことをしてしまう。原作を知らないので言われなきゃ気づかないし、それぞれキャストは最高なので映画としては素晴らしいのだが、ちょっと気になるところではある。
 ドクター・ストレンジの兄弟子であり、良き仲間でもあるモルド(コミックスでは「モルド公爵」)にキウェテル・イジョホー。茶目っ気もありつつ生真面目なモルドを演じていて、その生真面目さはやがて彼を蝕んでいく。コミックスでは悪役となるキャラで、本作でも最後にその片鱗を覗かせる。この辺は2がアレばそこで、あるいは他のMCU作品で続きが描かれるのか?予告編でもオチとして使われた「今どきだろ?」というWi-Fiパスワードは「SHAMBALLA」でヒマラヤにあるという黄金郷シャンバラを指してますね。

 個人的イチオシキャラクターはベネディクト・ウォン演じるウォンで一見とっつきにくそうで実は飄々として、実はモルドよりも融通がきくキャラクター。

 敵となるキャラクター、カエシリウスマッツ・ミケルセンが演じている。キャラクター的にはさほど個性の強いものではないが、演じるマッツ・ミケルセンの魅力でヴィランとして輝いている感じ。他部下にスコット・アドキンスがいます。

 極彩色のLSDでトリップしたような映像と並んで特徴的なのがビルが伸びたり曲がったりして変化していくもの。「インセプション」の夢の中を更に進化させたような映像が特徴的。いずれも「ドクター・ストレンジ」の世界観の象徴ともいえるだろう。

 MCUの他の作品との絡みは本作に限れば特に無し。ウォンがアベンジャーズの名を出して「彼らの戦いが物理的な世界の物とすれば、我々の戦いは精神的なもの」というような事を言うが(詳細忘れた)、直接的な言及はそれのみ。後はドクター・ストレンジが胸に下げるアガモットの目がインフィニティストーンの一つで「時間」を司るものであるらしいことが示唆される。作品の中では「マルチバース(多元宇宙)」の存在が言及されて、すわ!「X-MEN」とかもついに来るか!?と思ったりしたが、そういう意味での多元宇宙とはちょっと違って現実の世界に対して「アストラル次元」や「ミラー次元」「暗黒次元」など異なる物理法則で動いている世界がある、という感じ。これまではアスガルドなど神々の住む世界や様々な宇宙人が住む宇宙が登場したけれど、これらはあくまでMCUの現実である地球と地続きの同じ世界それに対してことなる次元を題材にした物語がこの「ドクター・ストレンジ」と言う形。

ドクター・ストレンジ:プレリュード (ShoPro Books)

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ドクター・ストレンジ:シーズンワン (ShoPro Books)

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Ost: Doctor Strange

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監督の前作。

MCUの前作。
 MCUだけど新しいヒーローということで過去作との関連は極力減らし新たなファンを獲得、と言う試みが成功したかはちょっと微妙かもしれないが(個人的に面白かったけれどキャストに助けられた部分は大きい気がする)、エンターテインメントとして十分面白かったです。あ、あと「スパイダーマン ホーム・カミング」に先駆けてMCUではニューヨークを根拠地とするMCU初のヒーローです(TVシリーズのデアデビル等除く)。まあ劇中時期的にはそんなに変わらないのだとは思うけれど。
 で、エンドクレジット後、恒例のお約束はソーとストレンジの会話。ロキの探索するソーにストレンジが協力する、というお話。
 というわけで、次は雷神ソーの3作目!「マイティ・ソーラグナロク」。「神々の黄昏」をタイトルの冠した更に神話色の強い作品になりそうです。すでにハルクが出るのは判明済みだが、ここにドクター・ストレンジも出てくるのだろうか。乞うご期待!

 スタン・リーも出てるよ!
EXCELSIOR!

*1:最初に観たのは多分「戦火の馬」なのだが、その時はまだ認識してなかった。ちなみにロキ(トム・ヒドルストン)の同僚軍人!

時代とガトリング マグニフィセント・セブン

 またブログ更新が滞っていました。いやそろそろ更新しようかなあとか思っていたところにアレな出来事が起きてどうにもやる気を失っていたのですが、それでもそろそろやる気を起こしましょう。まずは公開初日に観てもう、公開も終わりらしい「マグニフィセント・セブン」。ご存知「七人の侍」を西部劇リメイクした「荒野の七人」のリメイクです。

物語

 1879年アメリカ西部の町ローズ・クリーク。町はサクラメントに本拠地を持つ横暴な資本家ボーグによって崩壊の危機を迎えていた。金鉱のための本拠地にしようと企むボーグは保安官を買収し住民を追い出しにかかる。今や建前も捨てて堂々と反対派の住民を殺害する始末。夫を殺されたエマは町のためにガンマンを雇おうと決意する。
 アマドールシティ。委任執行官として賞金首を追うチザムは教も酒場で賞金首と彼に味方する荒くれ者どもを始末した。それを見てエマが彼にボーグから街を守る仕事を依頼する。チザムが集めたガンマンは7人。チザムに借金代わりの馬の代金を肩代わりされて仲間となったギャンブラーであるファラデー。南北戦争での南軍として戦ったグッドナイト・ロビショーと彼の相棒である東洋人ビリー。山里でハンターとして暮らすホーン。仲間になることと引き換えにチザムに見逃された賞金首バスケス。そしてチザムとコマンチ族の戦士レッドハーベスト。そこにチザムを加えた7人がローズ・クリークに向かう。しかしボーグは軍隊をも動かすような力を持っている。果たして彼らは街を守ることができるのか?

 オリジナル黒澤明監督による「七人の侍」は1954年の作品。「ゴジラ」や「東京物語」などと並んで50年代日本映画の黄金期を彩る作品の一つにして日本映画の最高傑作とも言われる作品だ*1。重厚で長大、社会性も批判性もあるけれど、まず何よりアクション映画として面白い作品。それまでの時代劇とは趣も違うこの作品はすぐに海外でも評価され、西部劇としてリメイクされた。
 1960年に西部劇リメイクされた「荒野の七人」は僕の大好きな作品で今でも頻繁に見返す作品。好きな作品というだけなら数多いけれど単純に一番多く見た作品は「荒野の七人」かもしれない。もちろん「七人の侍」も好きなのだけれど、白黒と長さがネックとなって頻繁に見返すとはいかない(といったってこの「荒野の七人」も2時間8分あるんだけれど)。「荒野の七人」に関しては過去何度か感想を書いていたりするのだけれど、とりあえず劇場で名画座という形で観た時のこちらを。

 作品は日本の「七人の侍」とは別にシリーズを重ね、最終的にはユル・ブリンナーも関係なくなっていくのだけれど、続編が4作、1998年からはTVシリーズ(映画とは無関係)も作られている。
 分かりやすく骨太なストーリー、オールスターを揃えられる設定。アクションも多く入れられる、とヒットの要因が揃ったこの作品を他の映画人が見逃すはずもなく、これまでも様々な「七人」物が作られてきたが、当然映画としてのリメイクも考えられていて、僕が最初にリメイクの噂を聞いたのは1997年頃か、ケビン・コスナーをクリス役にトム・クルーズチャーリー・シーンなどが噂として上がっていた気がする。最もこれはその時々の大スターを揃えて、という実現可能かどうかは度外視の噂であって、本当に当時どこまで進んでいたのかは定かではない。ただ、当時の噂のキャスティングでもすでにデンゼル・ワシントンイーサン・ホークは名前が挙がっていた気がする。
 監督は「イコライザー」でもデンゼル・ワシントンと組んだアントワーン・フークア。アクション作品のリメイクで馴染みの俳優と組んで、ということになる(イコライザーは元々はTVドラマ)。脚本は先に出来ていて、西部劇であることを条件に引き受けたとのこと(もしも現代劇だったり、中世ヨーロッパを舞台にした時代劇だったら引き受けなかったという)。

 さて、僕はなんといっても「荒野の七人」が大好きすぎるので、「荒野の七人」との比較でこの「マグニフィセント・セブン」を語るなら「面白かったけど、元の作品には遠く及ばない」という評価になってしまう。これはもうしょうがないことで、多分客観的に(「荒野の七人」に限らず)リメイク作品が本家の出来を超えたとしても、なかなか受け入れられないだろう。ただ一西部劇として観た場合は楽しく上手く現代に適合した作品になっていると思った。
 今回の「マグニフィセント・セブン」(これは「荒野の七人」の原題であり「七人の侍」が最初に海外公開された時のタイトルである)は比較的「七人の侍」に忠実だった「荒野の七人」に比べると大分アレンジがなされている。ぱっと見は時代劇(戦国時代の日本)を西部劇(開拓時代末期のアメリカ・メキシコ)に置き換えた「荒野の七人」の変化に比べれば同じ西部劇である今回はそんなに変化はなかろう、と思ってしまうのだけれど、「荒野の七人」は意外と設定や物語はオリジナルまんま。キャラクター設定のほうでアレンジはあるけれど(勘兵衛を主君として擬似的な君主と家臣の関係を築く侍と、あくまで横並びの対等な関係であるガンマンたちの違いとか)、大筋は野盗(野伏)に定期的に襲われてる村を守る、という点で一緒。村人が侍から若い女を隠したり、若い侍と村娘が恋仲になったり、百姓出身の侍が武士の酷さを訴えたり(「荒野の七人」だとその恋仲になるのと百姓出身が同一人物になっちゃうんだけど)するのも一緒。最後のセリフも一緒でまさに正統リメイク。それに比べると今回はかなりアレンジしてある。
 まず敵となるボーグのキャラクター。野盗であったカルベラと違い、資本家であるボーグはどちらかと言えば体制側である。野盗などというアウトローではない。アウトロー同士の戦いでもあった「荒野の七人」と比べ資本家ボーグと委任執行官チザムの戦いは(両者とも仲間にアウトローを含むが)体制側同士の戦いと言えそうだ。

 オリジナルの「荒野の七人」は1890年代(1892年というが詳細不明)が舞台で、今回は1879年が時代設定されている。約10年から15年の時代差があるのだけれど、この間に西部開拓時代は終焉を迎えていてガンマンというアウトローの時代も終りを迎える。「荒野の七人」ではチコがクリスたちに憧れを見せる一方でベテランのガンマンはもう自分たちの時代が終わりつつあることをほのめかす会話などがあるが、「マグニフィセント・セブン」はどちらかと言うと西部開拓時代まっただ中の時代なので、皆ガンマン=アウトローとして前向きな感じで明るいのが違いか。
 映画の中では南北戦争(1861〜1865)が重要な役割を果たしているのも違いで、多分「荒野の七人」の七人で南北戦争に従軍したものはいない。実在の人物ならワイアット・アープ(1848年生まれ)が「OKコラルの決闘」でカウボーイズと銃撃戦を起こすのが1881年。アープを基準として「荒野の七人」はその後、「マグニフィセント・セブン」はその前。「マグニフィセント・セブン」劇中ではチザムとグッドナイト、ホーン、そしてボーグが従軍者か。チザムとグッドナイトは南北戦争では敵味方だったが、今は仲間。一方でボーグとは南北戦争から因縁がある。「荒野の七人」は最初はアンソニー・クインが勘兵衛の役で南北戦争の敗残兵という設定だったらしく、より志村喬の勘兵衛に忠実な設定だったが、結果としてクインが降板、ユル・ブリンナーがクリス役となったことでもっと若き設定となった。
 物語のクライマックスではボーグ側がガトリングガンを出してくる。これによって人数の差はあれど、対等な銃撃戦だった戦いが一方的な殺戮となる。ガトリング砲は南北戦争中に開発された武器で、ある意味近代最初の大量殺戮兵器ともいえる。クランクを回転させるだけで何百発もの銃弾が連発されるこの兵器は兵士個人の能力に頼る時代の終わりを象徴する。明治維新後の日本を舞台に(時代設定はマグニフィセント・セブンとほぼ一緒)した「ラスト・サムライ」でも弓矢と刀で反乱を起こした武士に対してこのガトリングガンを持ち出すことでその銃撃の前にサムライたちは敗れ去り、古い時代を終わらせ新たな時代(それは必ずしも明るいものではなく恐怖と殺戮の時代でもある)の幕開けを象徴する小道具となったが、本作でもほぼ同様の役割を果たしているといえるだろう。

 リーダーであるチザムはデンゼル・ワシントン。先述の通り監督やキャストが決まる前に脚本は出来ていて、黒人であるデンゼル・ワシントンをキャストする前からチザムのキャラクターはある程度出来上がっていて、そこでは黒人という設定は無かったそうだ。これまでデンゼル・ワシントン主演映画の感想では何度か言っていると思うけれど、デンゼル・ワシントンはそれほど役柄から「黒人であること」を強く観客に意識させるタイプではない。今回もその例に漏れないのだけれど、それでも初登場シーンで荒くれ者が集う酒場にやってきた時に周囲のチザムに浴びせる視線は「黒人がこんなところに何のようだ?」という感じだろう。ラストのボーグとの会話もデンゼル・ワシントンが演じることにあたってある程度脚本を改定したのではないかと思う。チザムという名はリンカーン郡戦争(ビリー・ザ・キッドが活躍した事件)の重要人物ジョン・チザムが由来かなと思ったのだが、スペルが違う(Jhon ChisumとSam Chisolm)ので由来は不明。全身黒尽くめの格好はユル・ブリンナーのクリスを意識したものだろうか。この当時で黒人をリーダーとして担ぐのは異色も異色だったはずでその点でチザムこそ委任執行官という公僕だが、他はアウトロー気質が高い。
 スティーブ・マックィーンのヴィンに当たるのがクリス・プラットのファラデーだろうか。どちらかと言えば「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のスターロードに通じる飄々とした役柄。チームのムードメイカーとしても頑張っていたが、ただラストの死んだと見せかけて最後の一発を放つシーンは全然死にかけに見えなかったのはちょっとどうなのかという感じ。
 グッドナイト・ロビーショーとビリーのコンビはこの映画の最も見どころの一つだが、イーサン・ホーク演じるグッドナイトは南北戦争では南軍のスナイパーとして名を馳せながら現在はちょっとしたPTSD状態で普段はその弱さを隠して世俗にどっぷり浸かったような素振りをする。おそらく「荒野の七人」のハリーとリーを合わせたキャラクターだろう。ちなみにこのハリーとリーは「七人の侍」での菊千代と勝四郎をチコという一人のキャラに合体させたことで産まれた「荒野の七人」オリジナルのキャラ。ハリーはクリスが安いギャラで村を守るのに何か理由があるのだろうという世俗的なキャラで、一方ロバート・ヴォーンのリーは凄腕の賞金稼ぎだが今は逆に追われる身となり、また衰えていく自分の銃の腕に怯えているという役柄でもある。イーサン・ホークが見かけの世俗っぷりとその下に隠した怯えを上手く演じている。でもなんだか観てる最中ずっと嵐の二宮和也に見えてしょうがなかったです。
 東洋人ビリーはイ・ビョンホン。相棒グッドナイトがいることから孤高のイメージは薄いけれど登場シーンの対決やナイフ投げの達人という設定からも久蔵とブリットがオリジナル。ちなみに「ルパン三世」の五エ門は「七人の侍」の久蔵がモデルで、次元大介は「荒野の七人」のブリット、ジェームズ・コバーンがモデルだそうなので、元をたどると五エ門も次元もルーツは一緒!
 ビリーは一匹狼がグッドナイトと出会って相棒となった設定であるが、劇中ではむしろビリーがグッドナイトの保護者っぽい面を覗かせる。
 その他ホーンにヴィンセント・ドノフリオバスケスにマヌエル・ガルシア・ルルフォ、レッドハーベストにマーティン・センズメアーと新旧バランスよく揃えている。仲間になっていく経緯はちょっと弱い気もするのだが、そのへんは役者の魅力で持たせている感じか。個人的にはエマの付き添いとして出てくる街の若者テディ・Gを、なんならエマ自身を7人のひとりとしてカウントしても良かったのではないかと思ったりしたが。
 そのエマはヘイリー・ベネット。芯の強そうな未亡人を演じている。この「マグニフィセント・セブン」ではいわゆる恋愛要素がなく、ファラデーとエマがそうなるのかな、と思わせたりもしたが、最後までそういう展開にはならなかった。その上でエマの強さが際立つ。他の住人はテディ・Gをのぞいてほぼ目立たず。
 敵役のボーグにはピーター・サースガード。野盗ではなく資本家、という設定は独自であったが、実際ああいう「強盗貴族」は当時多くいたらしい。ただ!あえて無粋を承知で言わせてもらうと、僕が「荒野の七人」が大好きでなんなら「七人の侍」にも勝ると思っている部分はイーライ・ウォラック演じるカルベラの魅力が大きいと思っていて、その点でボーグは悪役の魅力としてカルベラに到底追いつくものでは無かった。

 オリジナルから大胆に削った要素もあれば、加わった要素もある。教会を舞台にしたシーンもそうで、初っ端から教会に火を付けられることでボーグの神をも恐れぬキャラクターが分かりやすくなっているし、また、神様はなぜ現在進行形で苦しんでいる者を助けてはくれないのか?みたいなテーマはこれまでになかったもので、その辺は「沈黙」とも共通するテーマと言える。何度も言うとおり僕は「荒野の七人」が大好きなのでそのリメイクに対して厳しい見方をしてしまうが、特に意識しなければ普通に優れた作品。人種構成が白人のみだった(チコのみメキシコ人、オライリーはメキシコとアイルランドのハーフ)「荒野の七人」に比べると黒人、インディアン、メキシコ人、東洋人まで揃えた「マグニフィセント・セブン」はバランスとりすぎだろ!と思わないでもないが21世紀にふさわしい西部劇となっているとは思う。残念ながらもう劇場公開は終わりだそうだが、ぜひ観て欲しい。

七人の侍 [Blu-ray]

七人の侍 [Blu-ray]

 音楽はジェームズ・ホーナーとサイモン・フラングレン。ホーナーは「スタートレック2カーンの逆襲」「タイタニック」「アメイジングスパイダーマン」などを手がけたが本作の製作中に飛行機の事故で急逝(自家用機を運転中に墜落)。長年ホーナーと組んでアレンジなどを担当していたフラングレンが後を継いで完成させた。ホーナーに取っては本作が遺作か。
 エルマー・バーンスタインの「荒野の七人」のテーマ曲は、本編ではそれを元にしたっぽい旋律がちょっとあるかな?という程度なのだけど、最後のクレジットでバーンスタインのテーマ曲が流れます。

*1:全然関係ないが1954年には「ゴジラ」と「君の名は」「七人の侍」が興行成績を争い、2016年は「シン・ゴジラ」と「君の名は。」そして日本公開こそちょっとずれるが「マグニフィセント・セブン」が公開されるというのはなかなか興味深い。まあ「君の名は」と「君の名は。」は作品上ほとんど無関係なのだろうけど

神は己の中にあり 沈黙−サイレンス−

 これまで実話であることを謳った超常ホラー映画等の感想ではしつこいぐらいに「フィクションの題材としては超常現象は大好きだけど実在するものとしては全く信じていない」というようなことを書いてきた。これは読む人に対して「僕はこういうスタンスですよ」と明らかにするためでもあるが、自分自身で自身のスタンスを再確認するためでもある。そりゃ小さころ(といっても中学生ぐらいまで)は信じていたこともあったのだが、今は完全に懐疑的。でもそういう態度で映画が楽しめないかといったら全くそんなことはない。
 これは宗教(ここでいう宗教は神宗教)でも同様で、僕は積極的に無宗教であろうと努力している。実家は浄土真宗でもしかしたら僕も自分の知らぬ間に檀家扱いされているかもしれないが、基本的にはどの宗教も信じていない。実家は神棚があって正月はそこにお供え物をし、お盆には寺(の墓場)に行き、クリスマスはケーキを食べるような節操のない(ある意味日本の典型のような)家庭だったのだけど(極めつけは両親は日本共産党支持者である)、逆に特定の宗教を押し付けられることもなかったのでその点では良かったと思う。この無宗教であろう、というのは逆に「他の人の宗教はできるだけ尊重しよう」という意味でもあって、自分は信じないけれど、信じている人をバカにしたりはしないように(努力)している。
 そんな宗教心のない僕だから、はっきり言って強い信仰心を持つ人の心というのは理解し難くはある。でもそこにロマンを感じたりをすることもあるわけで、今回はそんな神への信仰とロマンの物語でもある。遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシが監督した「沈黙−サイレンス−」を観賞。

 17世紀中頃、ポルトガルリスボンに日本で宣教に従事していたフェレイラ神父が拷問にあって棄教した、という知らせが届く。棄教の知らせが信じられないフェレイラ神父の二人の弟子、ロドリゴとガルペは真実を確かめ、また日本での宣教のために日本へ赴くとを決めた。マカオで棄教した日本の漂流民であるキチジローの手引で長崎から日本に入国する二人。そこでは弾圧に負けず幕府に見つからないように信仰を続けるキリシタンたちがいた。二人は潜伏し、二人を匿う村人たちに儀礼を施しながらフェレイラの消息を辿ろうとする。やがて幕府の手が村に伸び、彼らをかくまったモキチやイチゾウは信仰を捨てなかったため拷問によって殺される。二人はふた手に別れフェレイラを探す。やがてロドリゴはキチジローの裏切りで幕府に捕まり棄教を迫られる。頑なにそれを拒むロドリゴだったが、やがて彼のために拷問にあうキリシタンや、棄教して今は沢野忠庵と日本名を名乗るフェレイラと出会い揺さぶられる。なぜこれほどひどい目にあっているのに神は救いをもたらさないのか。そして決断の時が…

 原作は遠藤周作が1966年に発表した小説で、日本国内のみならず世界20ヶ国語以上に翻訳されていて、20世紀の、キリスト教文学の最高傑作とも言われるそうだ。僕は遠藤周作というとまず竹中直人のものまねとかが思い浮かんでしまうのだが、遠藤周作自身キリスト教徒としての強い想いとそれ故に信仰に揺れた時期とがあってそれらがこの小説には込められているという。
 小説のモデルは実際にあった出来事で、フェレイラ神父が棄教したのは1633年。この時信仰を捨てずに殉教したのが、天正少年遣欧使節で有名な中浦ジュリアン天正少年遣欧使節の4人もその後帰国して禁教令が出る中で様々な人生を送っている)。ロドリゴ神父のモデルはジュゼッペ・キアラでやはり棄教して岡田三右衛門なる日本名を名乗る事になったのも史実通り。
 一般に現在「隠れキリシタン」というと「江戸時代に弾圧を逃れて密かに信仰を貫いたキリシタン」というイメージであるが、厳密には「カクレキリシタン(学術用語としては全部カタカナ)」は明治以降禁教令が解かれ、欧米の宣教師がやってきてもカトリックに戻ること無く江戸時代を通じて行われてきたもはやカトリックのものとは別の独自の信仰、教えが長い時を経て変わってしまったり、本来隠れ蓑のはずだった菩薩信仰(観音菩薩をマリア像にに見立てていた)などが混じったもの、を貫いた人々のことを指す用語なのだそう。現在でも一定数いるらしい。後は「踏み絵」も本来は「絵踏み」といって絵踏みのために用意したキリスト画などのことを「踏み絵」という。

 映画はフェレイラが長崎で信徒の壮絶な拷問を見せられるシーンから始まる。貼り付けにしたキリシタンに温泉の熱湯をかける。崩れ落ちるフェレイラ。フェレイラを演じているのはリーアム・ニースン。後述するがガルペ神父をアダム・ドライヴァーが演じていることもあり、堕ちたジェダイという言葉が脳裏をよぎる。「スターウォーズ」とは逆ではあるのだが。
 主人公のロドリゴを演じるのは「アメイジングスパイダーマン」シリーズ」のアンドリュー・ガーフィールド。彼のまるで少女漫画にでも出てきそうな風貌、そして33歳とは思えぬ童顔からある意味彼は理想を多い求める人の象徴である。その純粋さ故に苦しみもがく。
 もう一人のガルペにはアダム・ドライヴァー。「フォースの覚醒」では堕ちたジェダイカイロ・レンを演じていたが、ここでは最後まで信仰を貫くき結果として死を遂げる(あれを殉教とまでいえるのかはちょっとわからない)。「フォースの覚醒」の感想では「特にへんてつもないイケメン」とか書いたけど、よく見ると結構ユニークなルックスで、純粋そうなガーフィルドに比べると柔軟に、いざというときのサバイバル能力もありそうに見える(とはいえ一部のシーンで彼のほうが信仰に凝り固まってると見受けられる部分もあるが)。裸になるシーンも有るのだが、あれですね、結構ひょろっとしたタイプでアンガールズの3人目ッて感じ(ひょろっとした長身で特徴的な容貌の人を見るとすぐアンガールズの3人目って形容してしまう)。日本が舞台の物語のため主要となる外国人キャストはこの3人(後はイエズス会のヴァリニャーノ神父でキアラン・ハインズが出ている)だけ。実際に当時宣教師やキリシタンの間で使われていた言葉はポルトガル語だろけどそこは英語を基本に時々ポルトガル語の単語(パライソとかパードレとか)が混じるという形。通辞以外でも農民や武士が英語ペラペラなのはまあ映画としての都合。
 日本側のキャストは通辞に浅野忠信。名前こそないただの通辞(通訳)だが、きちんとキャラクターとして独立していている。
 原作における遠藤周作の分身とでも言えるのがキチジローで、演じているのは窪塚洋介。キチジローは家族が棄教せず焼き殺されたなか一人だけ生き残ることを決めた人物で、その後も何度も絵踏しては生きながらえ、ロドリゴの前に現れる。ユダのような人物と言われるが、ある意味彼を通して神はロドリゴに語りかけるような存在。何度も転向を繰り返し、最も信心が薄い人物のように思われた彼が最後の最後で見せかけの棄教をしていても実は一番しっかり信仰心を持っていたのではないかと思わせる。神は己の中にあり。
 そしてイッセー尾形演じる井上筑後守。この井上という人物は一応実在の人物で、元キリシタンという説もあり遠藤周作の原作ではその説を採用しているそうだ。つまり実は彼もフェレイラと同等の人物である。映画ではその部分が語られないが、その分純粋悪のような悪役としての魅力にあふれる。拷問や処刑など極悪なことをしておきながら、顔色一つ変えず、自分の行為を正当化するのに弁舌爽やか。イッセー尾形はここ最近の作品ならばタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」におけるクリストフ・ヴァルツのランダ大佐、「ジャンゴ」のサミュエル・L.ジャクソンの奴隷頭スティーブンに匹敵する存在感のある悪役だろう。しかも死なないし反省することもない!彼の怪演を観るためだけでも観賞の価値はあると思う。
 その他、キリシタンとして小松菜奈加瀬亮が夫婦役として、最初にロドリゴが匿われる村の農民として塚本晋也などが出ている。個人的には片桐はいりが出てきてアダム・ドライヴァーとユニークなルックスのツーショットが観られたり、あるいはキリシタン弾圧の役人として菅田俊が出ていて、アンドリュー・ガーフィールドと並んだ時に「仮面ライダーZXとスパイダーマンだ!」とか変な部分で楽しめた部分もありました。
 後は、これは海外の人が観てどう思うのかは分からないのだけど、牢番としてちょっとだけ出ている青木崇高が一瞬の登場でも非常にチャーミングで強い印象を残したのだった。

 日本のキリスト教の歴史は(オカルト的な「キリストの墓が日本に!」的なのを除けば)1549年にフランシスコ・ザビエルによって宣教されたのが最初、とされる。そこから約半世紀は日本の歴史上でも最もキリスト教が受け入れられた時代であり、特に九州の一部はキリスト教王国の様相をなしていた。これには当時戦国時代で統制を取れる中央政府室町幕府や朝廷)が機能していなかったこと、群雄割拠の時代であり、各国の領主は外国との貿易(とりわけ鉄砲関連)に熱心だったことなども挙げられているだろう。ただ一部の大名はた単に実利だけでなく熱心なキリシタンとなり、大友宗麟小西行長高山右近などは熱心なキリシタンとして知られた大名である。特に大友宗麟キリシタンのための王国の建設を目指したこと、高山右近は秀吉の禁教令に従わず日本からマニラに追放されたことなどで外国でも有名である。
 劇中では「日本の風土にキリスト教は合わない」という人物がおり、似たような言説は今でも言われることがある。でも実際は決してそんなこともないわけで、キリスト教が日本で根付かなかったのは、ローマ帝国初期の皇帝が弾圧したのと同じように、日本の階級社会を脅かすと判断した権力者、豊臣秀吉や徳川将軍が弾圧したからに他ならない。
 映画では井上や通辞、あるいは「こっちも面倒くさいからさ、ちょこっと絵を踏んでそれで、終わりにしようや」みたいなことをいう役人など、一見すると日本側が寛容に理詰めで棄教を迫っているようにも見える。これが外国人が観てどう思うかはまた別なのだが、日本人が観て「棄教しないキリシタンや宣教師が悪い。自業自得」というような印象を持つものもいるかもしれないし、実際にツイッターなどで「キリスト教が悪い。やはり日本にはキリスト教は合わない」みたいな感想をしている人もいた。そりゃキリスト教にも古くはアレキサンドリアでの女性数学者ヒュパティアを虐殺した事件や、悪名高い十字軍、あるいは南米での布教など、虐殺する側に回った歴史もあるのだけれど、この件に関しちゃ純然たる被害者だと思う。初期の禁教令に関して「布教は日本を植民地化するための布石」みたいな意見もあるけれど、本気だったら禁教令が出ようと武力行使したと思うのでほぼ眉唾だと思う。日本をさして「沼」という表現が使われるがこれは日本の風土と言うより人の心のことなのだ。
 
 棄教したものの評価は哀れだ。キリスト教側からは裏切り者扱いされ、日本側でも棄教を迫っておきながら、最後まで信念を貫けなかったとして軽蔑もされたという。原作小説の「沈黙」は発表当時は棄教した側の立場を描いたことでカトリック教会から攻撃もされた。実際のフェレイラやキアラがどういう心情だったのかは想像する他ない。自身への拷問ではなく、すでに棄教を宣言したのに宣教師が棄教しない限り拷問が続き、自分の信念のために他のものが酷い目に合うのに耐え切れず棄教した、という描かれ方がされている。遠藤周作が救い上げたのはそういうどちらからも見放されたものたちだ。
 スコセッシは自身も経験なカトリックであり、キリストの生涯を描いた「最後の誘惑」を監督した後、やはり賛否両論の中カトリックの神父に渡されて原作と出会ったという。以来28年間映画化を模索し続けていた。主に台湾でロケが行われた本作はその執念ともいえる出来になっている。美しい風景と凄惨な拷問シーンは決してこれみよがしに強調されるわけではないが強い印象を残す。冒頭の熱泉をかける拷問やモキチたちに対する押し寄せる波を利用した拷問など、その美しい自然を利用した拷問もある。

 ちなみに本作「沈黙」はすでに1971年に日本で篠田正浩によって映画化されている。脚本には遠藤周作自身が関わっている。ここで面白いのはフェレイラを演じているのが丹波哲郎ということ。


 ほぼ同じシーンなんだけど、棄教して憑き物が落ちたように割りとさっぱりした趣もあるリーアム・ニーソンのフェレイラに対して、苦悩するキリストかラスプーチンかのような風貌の丹波哲郎のフェレイラ。日本版の方は口でロドリゴに棄教を勧めながら、信仰を貫くことを期待している風もある。見比べるのも一興。

 映画のチラシに記されていたもの。「長崎二十六聖人の殉教」が「江戸時代初期」ってなってるけど、これに関しては1597年の出来事だからおもいっきり豊臣政権(豊臣秀吉)による弾圧事件。確かに江戸時代のキリシタン弾圧は壮絶で過酷に過ぎたけれど、この発端ともいえるこの事件を江戸幕府のせいにされるのは良くない。悪いのは豊臣秀吉!なんどでも言っていいけど豊臣秀吉は過酷な重税、無意味な外征、理不尽な粛清と為政者としてやってはいけないことばかりやっているので日本史上でもまれに見る暴君!

 ラスト近く沈黙を破りロドリゴに語りかける神さまですが、是非そのシーンをサミュエル・L・ジャクソンに変えたMAD動画とか見たいです。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 明治維新を迎えて日本のキリスト教禁教は廃止されたが、すぐではない。最初は江戸時代の方針を貫いて禁教とし、出てきたキリシタンを弾圧したが、諸外国からの抗議によって禁教令は廃止されたのだ。結局この国を解き放つには過去幾つかの事例でそうだったように、外圧しかないのかもしれない。

白黒でよりソリッドに! マッドマックス 怒りのデス・ロードエディション

 2015年はもう「マッドマックス」の年と言ってよかったわけだけど、その時に僕が思ったのは「これは白黒にしたほうが効果的なんじゃないか?」ということ。複雑な情景というよりは極端に限られた色味の背景を舞台に繰り広げられたアクションは、カラーであるより白黒の方が逆にテーマを浮き彫りにし物語を引き立てるように思ったのだ。その感覚は決して間違いではなかったようで、監督のジョージ・ミラーモノクロームのものこそ本当に望んだバージョンであるとして白黒にした「マッドマックス」がソフト発売される事となった。その前にこのバージョンを是非劇場で!と公開されたのが本作。「マッドマックス怒りのデス・ロード<ブラック&クローム>エディション」を観賞。

 物語紹介などはオリジナル公開時のこちらを参照してください。

 まず僕が今回鑑賞した劇場は川崎のチネチッタ。そこの「LIVE ZOUND」という上映形態。例えば立川のシネマシティでの「爆音上映」などが話題となっているが、僕自身は基本的にあんまりそういうのを体験してこなかった。もちろん映画館の大画面大音量で、というのは基本としても、そういった付加価値的なものにあまり価値をおいてこなかったのだ。例えば映画の物語に合わせて座席が揺れたり風が吹いたりするMX4Dという上映形態などがあったりするが、あんまり興味はない。もちろん体験してみて「こりゃ凄え!」ってなる可能性もあるが、まず値段が高いので今のところ体験する気もない。IMAXにしても今はすっかりIMAX3Dという形式が普通だが、2Dの映画ならIMAXを選ぶこともあるが3D(特に字幕)はもうなるべく避けるようにしている。僕がメガネ装着者でメガネの上に更にメガネを掛けるのが辛いということもあるが、最近は頭痛までしてきて、まず映画を楽しめなくなっているからだ。通常の3Dならクリップ式のメガネを持っているのでそれほどでもないんだけどね。なのでそういう通常の上映以外の付加価値はあんまり興味がなかった。
 ただ、今回は事前に凄いと聞いていて、さらにこの「LIVE ZOUND」という上映は料金が通常と変わらないのである。だったら別に避ける必要もないわけで今回はこの「LIVE ZOUND」で観賞。
 実を言うとこれまでにも新作映画でこの「LIVE ZOUND」という上映を体験したことはあった。ただその時は「ちょっと他より大音量だけど特に凄くは感じないな」という感じだった。ただ今回は違った。
 もちろんこれまでのものは新作映画だったのでその鑑賞が初めてだったり唯一だったりして他と比べていない、ということはあり、それに対して今回は過去にIMAX含む7〜8回劇場で観た作品なのでその点で比較で凄さを感じやすいと言う部分もある。後はこの「マッドマックス」を前に新しいサラウンドスピーカーを導入したとのことなのでその点でも以前とは違うのかしれない。
  いや凄かった!

 音で座席は揺れるし、足元のズボンの裾ははためくし、なんだか風ではないが音圧というか質量を伴った音が顔に迫ってくるような感覚。音楽も効果音も真に迫っていた。これはちょっと他では味わえない体験。ただチネチッタのこの「LIVE ZOUND」上映には作品に合わせて主に3種類の方法があって


だそうです(上記のツイートから幾つか続く物を参照)。
 当然その作品にあった音響というものがあるわけで、どの作品でも今回のやり方がベストというわけではないんだろうけど、とにかく凄い体験でした。単に音楽の使用法とかそういう部分以外で音響についても考えさせれた。

 さて、音響部分以外でこの「ブラック&クローム」がどうだったかといえば、個人的にはこのバージョンがカラーより良かったです。基本的にはカラー作品としての「マッドマックスFR」をそのままモノクロに変換しただけで、特に編集だとかで変更はないのだと思う。それ故に白黒になって分かりにくくなった部分もあるのだけれど、全体としてはより画像が先鋭化して単に映像部分だけでなく物語のテーマとしても際立つこととなったのではないかと思う。「マッドマックスFR」のイメージカラーは砂漠や岩肌、燃え上がる爆炎といったところから赤や黄色、オレンジを思い浮かべる人も多いと思う。それは赤錆を連想させ、荒廃した世界にピッタリだとは思うけれど、暖色なので同時に温かみも感じてしまう。それがモノクロになることで画面全体が陰影が浮き上がってソリッドな印象へ変えた。

 また、目の周りを黒く塗ったウォーボーイズやいざというときの目から上を黒くしたフュリオサ、あるいは眼力を発揮するイモータンジョーのメイクなど一部のキャラクターの目を白黒は強調する。
 また特に序盤に多く見られた少しコマ数を落としてチャカチャカした動きは白黒になることで昔のサイレント映画のような感覚を強め、他のシーンの動きと差が際立つ。やはり中盤の砂嵐のシーンも個人的には白黒の方が迫力があってよかったと思う。

 もちろん分かりづらくなった部分もある。キャラクターとして人気を集めたドゥーフ・ウォリアー(盲目のギター野郎)の一連のシーンは白黒になり彼の赤い服やギターのネック先から吹き出す炎といったギミックがわかりづらく、また音響が良くなったことで逆に彼のギター演奏は埋没してしまったかもしれない。
 音響に驚かされた本作だけど、逆に邪魔なものもあった。これは僕がこの「マッドマックスFR」を大好きで劇場でも家でも何回も観て、もう物語の展開はもちろん、セリフもほとんど覚えてるような状態だったからかも知れないが(実は家で鑑賞するときも英語音声を日本語字幕もない状態で見てる事が多い)、音楽や効果音はともかく、もうセリフは無くても十分だったんじゃないか、と思ったりした。本作は元々そんなにセリフが多い映画ではないのだが、セリフを無音にし、どうしても必要な箇所は本当にサイレント映画のように別画面で映す、とかそういう風にしても良かった、と思ったのだった。もちろんそんなことをしたらシーンが間延びしてしまう可能性もあるのであるが。
 後はせっかくの「ブラック&クローム」なのに日本語字幕がちょっと黄色がかっていて、せっかくの「ブラック&クローム」を邪魔してしまうのだ。いっそ字幕無しバージョンでの上映でも良かったかも*1
 物語内容については今更書かないけれど、ちょっと思ったのは字幕のこと。邦題の「怒りのデス・ロード」は良い(あえて言うなら「デス・ロード」の「・(中黒)」は要らない。2単語までなら中黒なしの方がスッキリして良いと思う)。ただ劇中でニュークスが「I'm gonna die.historic on the Fury Road.」というセリフが「死ぬ時はデス・ロードで派手に散る」となってるのが以前から気になってはいた。文意の「フューリーロードの歴史になる」が「デス・ロードで派手に散る」になっているのはまあ良い。原題の「Fury Road」に当たるから「デス・ロード」としたのだろうがここではニュークスがはっきり「フューリーロード」って言ってるのが聞こえるんだよね。固有名詞を別のカタカナ単語にするのは聴覚と視覚が一致しないため鑑賞していて非常に居心地が悪い。ここは普通に「フューリーロード」にするか、もし邦題に合わせるなら「怒りの道」とでもしたほうが良かったと思う。同様に「War Rig」も「ウォータンク」になったりしていて多少の違和感もあるのだが、こちらはそれほどはっきり耳に聞こえてこないのでまだ良し。
 後はやはり固有名詞の問題でイモータン・ジョーの二人の仲間、「The Bullet Farmer」と「The Peaple Eater」。それぞれ「武器将軍」と「人食い男爵」と訳されている。原語では「弾薬畑の農夫」とただの「人食い」なわけで日本語で勝手に「将軍」とか「男爵」とか称号を付加しているわけで、個人的にはこれもどうかと思う。映画ファンは割りと海外のオリジナルをそのまま持ってくることを好み、余計なローカライズを嫌う傾向があるのだけれど、なぜか「マッドマックス」では好意的に受け入れられてるのが不思議。英語でもこの二人の名前は決して格好良くはないわけで、あえてその格好良さを感じないネーミングにしているのはわけがあるのでは?とも思うのでここも単にそのままカタカナにするか、直訳でよかったと思う。

 というわけで、もう来週にはソフトが発売されてしまうのだけど、個人的にはこの「ブラック&クローム」こそ真のポテンシャルを発揮したバージョンだと思うので、もし機会があるなら是非劇場で泣きの一回を!
ミスト コレクターズ・エディション [DVD]

ミスト コレクターズ・エディション [DVD]

カラーで公開されたのに監督の意向(本当に望んだバージョン)でモノクロ版も発表、発売した作品といえばスティーブン・キング原作、フランク・ダラボン監督の「ミスト」。こちらも白黒になったことでよりテーマが浮き彫りになった作品といえましょう。日本ではDVDの「コレクターエディション」のみ収録のようです(発売時に買ったよ!)

*1:何度も言っているようにこれは何回も作品を見て内容を把握しているものの意見。初見で同様のことが言えるかは分からない

忍者、動物、宇宙人。振り回されて人間は辛いよ! 動物戦隊ジュウオウジャーVSニンニンジャー 未来からのメッセージfrom スーパー戦隊

 自分の生まれ故郷は福島県喜多方市で(育ちは福島市)、江戸時代には会津藩だったところ。小さい頃から白虎隊の悲劇などを聞かされてきて、そのせいか現在はすっかり東軍&佐幕派で、大河ドラマで幕末や関ヶ原の戦い大坂の陣などが舞台になるともっぱら徳川方として肩入れすることが多い。そんな僕ではあるが、昨年は三谷幸喜脚本の「真田丸」にドはまりしてしまい、2016年限定で西軍&豊臣贔屓になりました。主人公の真田信繁*1はもちろん、石田三成も普段は嫌いな人物だがドラマでは魅力的だったし、なんといっても秀頼様!中川大志くん演じる秀頼様が凛々しすぎてその眩しさに毎回してやらえておりました。もしも真田信繁たちの言うとおり秀頼様が前線に立っていれば、単に兵士の戦意が高揚するというだけでなく、もう行くところ味方の負傷兵の傷は癒え、敵兵は寝返り、歩いた土地には花が咲き乱れ、荒れた土地も一気に回復し、戦に勝利たことでありましょう!本放送で負けたとしても再放送では!総集編では!と希望をつなぎましたが、結局歴史はくつがえりませんでした*2。今年は同じ赤備え!井伊直政の養母井伊直虎を主人公にした「おんな城主直虎」。本来の自分に戻り徳川方を応援したいと思います(織田有楽斎並みの変わり身の早さ)。
 で、そんな日曜日の夜の顔、大河ドラマ真田丸」で忍者の棟梁こと出浦昌相演じた寺島進は同時期に日曜日の朝の顔、スーパー戦隊シリーズ動物戦隊ジュウオウジャー」で主人公の叔父森真理夫を演じていたのでありました。両方共準レギュラーぐらいの出演で毎回出ていたわけではないですし、決して出演時も出番が多いわけではないですが、ほぼ同時期の大河とスーパー戦隊の掛け持ちはさぞ大変だったことでしょう。そんな忍者とも動物とも縁が深い寺島進も出演したスーパー戦隊VSシリーズ最新作「動物戦隊ジュウオウジャーVSニンニンジャー 未来からのメッセージfrom スーパー戦隊」を観賞。

物語

 キャンプを楽しむジュウオウジャーの面々。そこへ突然ニンニンジャー顔襲い掛かる。どうやらジュウオウジャーを妖怪と間違えているようなのだが、聞く耳を持たない。互いの巨大ロボバトルにまで発展し、ジュウオウレッド風切大和とアカニンジャー伊賀崎天晴は他の仲間から外れ、タイマンへ。一歩も引かない二人を止めたのは忍者の格好をした子供。彼は未来から来た天晴の子供で伊賀崎快晴。快晴によると明日ジュウオウジャーニンニンジャーが全面対決の末、両者とも全滅、それによって40年以上続いてきたスーパー戦隊の歴史が終わってしまったという。事態を察して休戦する大和と天晴。しかし仲間たちはそれぞれ操とキンちゃんを人質に決闘の準備を。そしてこの戦いの裏にはデスガリアンの存在が…スーパー戦隊の明日はどっちだ?!

 スーパー戦隊VSシリーズは、元はオリジナルビデオ作品として始まって、近年は劇場公開されてもいるシリーズ。その年の戦隊と前年の戦隊が共演するイベント企画である。タイトルに「VS」とあるように毎回一度は両戦隊が激突するのも売りだ。似たような仮面ライダーのクロスオーバーイベントが毎回僅かな矛盾が気になって100%楽しめないことも多いのだが、その点このVSシリーズはそんなことを気にする必要はないくらいおおらかな世界観。毎回「互いに気づいていないかもしれないけど同じ世界なんだよ!」という感じ。これはライダーと違って対象となる児童の年齢層が更に低いというのもあるだろうけど、この強引さが逆に些細な矛盾点をキにさせない力強さを生んでいる。今回も観ている時には幾つか気になる点がないでもなかったけれど、全体としてはそんな小さなことは気にしない忍タリティ溢れる作品でした。(そして後述するが観ながら「あれ?おかしくねえか?」と思ったりもしたところがあるのだが、見事にその想いはエンディングで昇華されるのだった)

 冒頭に「真田丸」のことを書いたけれど、今回の作品は幾つかいろんな作品のパロディがあるような気もして、ニンニンジャーがアトリエ・モリに侵入し操を拉致する際、森真理夫(寺島進)が僅かな殺気を察知して、彫刻刀を手裏剣のごとく投げるシーンがあるのだけれど、これは出浦様だ!と思いましたね。後はニンニンジャーをだますファンシーな格好のルンルンというデスガリアンが登場するのだが、このルンルンは「花の子ルンルン」でもあるし、同時に「プリキュア」シリーズで毎回出てくるぬいぐるみっぽいマスコットキャラのパロディなのかなとか思ったりもした。
 冒頭ではキャンプを楽しむジュウオウジャー。久々にジューマンの姿で羽根を伸ばす姿が見られるが(この姿のままニンニンジャー初顔合わせするので妖怪と言われてしまう)、ここでセラさん(サメのジューマン)が服を着たまま川で泳いでいるのだが、そこは(スケベな意味ではなく)脱いだほうが良いのでは?とかサメなのに淡水で泳いで大丈夫?とか思ったりした。が、これはそもそも陸上で二足歩行してる時点で些細な事だったね。

 物語の時期的にはまだクバルさんがデスガリアンの幹部として健在なので2016年12月のはじめぐらいだろうか。
 何しろ登場人物が皆一癖も二癖もある人物ばかりなので、必然的に大和が大変苦労することに。ジュウオウジャーのジューマンの面々もみなやはりどこか人間とは違っているし、ニンニンジャーの面々でも一番やっかいな天晴とのタッグが多い。操はいつもの用にうつ気味だし。皆オレがオレが系のキャラクターばかりなので大和の心労は絶えない。天晴はにわかに信じがたい未来から来た自分の息子、という快晴の説明をあっさり受け入れるし、何しろTVの時から人間的な成長が殆ど無いので真面目な大和には辛かっただろう。凪あたりとのコンビだったら良かったのにね。しかも大和はさんざん翻弄されて、でも根っからの良心的な若者だからそのイライラを爆発させることもない。そんな「常識人は辛いよ」な作品でもある。
 今回は特に前年のニンニンジャーにキャラクターとしての成長は特に見られない。がそこがニンニンジャーの良い所な気もする。成長して分別のつく天晴やイージーさんなんて見たくないもの(とはいえTVシリーズの頃はこいつらの性格に振り回されていたが)。凪や霞さんは元から大人だしね。

 さて、快晴。「明日、両戦隊が死亡し、戦隊の歴史も終わる未来から来たのになんで天晴の息子が生まれてるんだ?」とは誰もが思う疑問。僕もずっと思いながら見ていた。ただもうそこは下手なツッコミも野暮なのかな?とも思って別に矛盾があってもいいよ、ぐらいに思っていた。しかしラストその疑問を大和が口に出す。答えは簡単。
すでに天晴は結婚していて奥さんは妊娠中!
 これはびっくり。劇中でも誰も知らず、旋風(天晴と風花のお父さん)や風花ちゃんも知らされてなかった一大事。TVシリーズでそんなの匂わせるエピソードとか無かったよね?天晴の空気の読まなさというか周りのことをほっといて自分の道を進む姿は相変わらず。ただ、だからこそ快晴の存在をあっさり受け入れられたんだなあ、とは思う。もっともそんなことなくても天晴はあっさり信じたような気もするけどね。

 一応40作品目記念作品。なので歴代レッドが出てきます。その中でリードを取るのは「超獣戦隊ライブマン」のレッドファルコン。これは同じ猛禽類モチーフのレッドということもあるだろう。声もちゃんと嶋大輔です。
 恒例の新戦隊は最初から9人体制スタートという異色のスーパー戦隊宇宙戦隊キュウレンジャー」。ジュウオウバードの代わりにデスガリアンを蹴散らす。例によってジュウオウジャーたちとの顔合わせはなし。
 最近は一名の追加戦士はもちろん複数の追加戦士も当たり前になってきて「獣電戦隊キョウリュウジャー」は最終的に10人の大所帯。ただ、最初から9人というのは初めてで、タイトルにも「キュウレンジャー」となってるところをみると逆に追加戦士はないのだろうか?といってもいわゆる人間の戦士はいつもの様に5人で後はロボットだったり宇宙人だったりで人間態がない模様。これは「特命戦隊ゴーバスターズ」のゴーバスターズとバディロイドまで含めて一つのチームってのの発展形なのかなって思う。それよりもメイン舞台が地球でなく未来の宇宙であるって方が新機軸すぎて大丈夫か?って思ったりするが、そこはスーパー戦隊。毎回新戦隊発表の時には不安になってもいざ始まれば全然OK!になるでしょう*3

 TVの方はもうクライマックス。ジニスはめっちゃ強かったが果たしてどうなるジュウオウジャー!ということで後はTVで座して待て。
この星を…なめるなよ!
忍ぶどころか、暴れるぜ!

最後に「真田丸」の画像を!

大坂戦隊ロウニンジャー!


格好いい…

*1:大坂の陣近くで従来の真田幸村に解明したけれど個人的には最後まで信繁で通して欲しかった

*2:大蔵卿局の無能ぶりが印象深いが淀殿と秀頼様を思うことからくる無能だからこそたちが悪い

*3:この辺ライダーが作品によって出来不出来(というか僕の好き嫌い)が激しいのと違って戦隊は平均的に楽しめる事が多い