The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

黙示録の先の希望 X-MEN:アポカリプス

We are livin', livin' in the eighties
We still fight, fightin' in the eighties
TOUGH BOY」byTOM☆CAT

 我々は1980年代に生きている!「ゴジラ」の新作と「ゴーストバスターズ」の新作が同時期に公開されるあの84年や89年と同様*1
 2000年に始まった映画「X-MEN」シリーズも本伝5作、外伝3作(FFを除外)を数え、時代をさかのぼって始まりを描く「X-MEN ファースト・ジェネレーション(以下FC)」から始まる展開も63年、73年と舞台を変遷し今回は83年が舞台。一応のシリーズ最終作を謳う20世紀FOXマーベルコミックスユニバース、「X-MEN:アポカリプス」を観賞。

物語

 紀元前3600年のエジプト。最古にして最強のミュータント、エン・サバー・ヌールは自身の肉体的な死を間近に迎えて新たな肉体へ、その魂を移そうと試みていた。ピラミッドの中で儀式が始まった時、彼に従わない裏切り者が儀式を妨害。彼の忠実な部下四騎士がエン・サバー・ヌールを守るもピラミッドごと沈み彼は長き眠りについた。
 1983年、73年の事件によりミュータントの存在が広く知れ渡った。ミスティーク=レイブン・ダークホルムはミュータントの英雄となったが彼女はそれをよく思わず虐げられたミュータントの保護活動を、マグニートー=エリック・レーンシャーはポーランドで新しい家族とともにひっそりと自分の過去を隠し暮らしていた。そしてプロフェッサーX=チャールズ・エグゼビアはやっと念願のミュータントの子供たちのための「恵まれしものの学園」を経営、学校運営も軌道に乗ってきていた。そんな時かつてチャールズたちと行動を共にしながらも記憶を消去されたCIAのモイラ・マクタガートはエジプトで謎のカルト教団を負っていた。彼らが地下で儀式を行っている場に潜入。太陽の光が差しこみ、伝説のミュータント、エン・サバー・ヌール=アポカリプスが復活する。彼は目覚めて最初に出会った少女ストームを新たな四騎士の一人とするとこの世界を「適者生存」ミュータントの世とするべく活動を開始する。
 サイコキネシスも使えるテレパスであるジーン・グレイが夢に見たビジョンからアポカリプスの存在を感じ取ったプロフェッサーXは再びモイラと接触する。ミスティークも新たに保護した若きミュータント、ナイトクローラーを連れて学園に戻ってきた。
 ポーランド。エリックはその正体を暴かれ家族を殺される。復讐に燃えるマグニートーの前に現れたのはアポカリプスだった。アポカリプスの四騎士の一人となったマグニートーへチャールズがセレブロで話しかける。しかしその様子を察知したアポカリプスはチャールズの能力を奪おうとするのだった…

前作の感想はこちら。

 そういえば私事ですが、約一年ぶりにblu-rayが見れる環境が復活したのですよ。で、買って見てなかった映画なんかをここ最近ずっと見たりしていたのですが、その中には「X-MEN フューチャー&パスト(以下DoFP)」のローグ・エディションもあってやっとそちらを見たのです。ので、ちょっと「ローグ・エディション」の感想を。
 劇場公開版では、暗黒の2023年ではアイスマン=ボビー・ドレイクと恋人関係にあったのは「X-MEN ファイナル・デシジョン(以下LS)」で関係が深まったシャドウキャット=キティ・プライドだったけれど、ウルヴァリンが改変した希望に満ちた2023年ではアイスマンと付き合っていたのはほんの一瞬だけ登場するローグだった。この展開は「DoFP」のみ見た人にはちょっとわだかまりが残る展開だっただろう。もちろん2つの2023年には直接的なつながりは無くなったので人間関係が同様である必要はないのだが、ちょっとすっきりしない。またローグを演じていたアンナ・パキンは最後に一瞬出演しただけなのにエンドクレジットでは単独で載っている。実は本来ブライアン・シンガーが望んだバージョンがあった、ということでそれが「ローグ・エディション」である。
 劇場公開版はウルヴァリンを過去に送る(2023年のローガンの精神を過去1973年のローガンの肉体に移す)役割を負ったのはキティだが過去のことで錯乱したウルヴァリンが暴れた時に傷を負う。劇場公開版ではその後もキティが一人我慢するが「ローグ・エディション」ではここでローグの出番となる。キティの力を奪い代わりにウルヴァリンのタイムトラベルを行う者として。ローグはすでに死んだものと思われていたが、実はプロフェッサーXも感知できない場所=エグゼビア邸のセレブロの中に囚われている事が分かる。ローグを救出するためにアイスマンマグニートーが向かう、という展開。このシーンは1973年にマグニートーが自分のコスチュームを奪還する劇場公開版でもあったシーンとカットバックで出てくるので対になっていることが分かる。そしてローグがキティに代わる。
 他にも細かい追加シーン、変更シーンなどがあるので、劇場公開版と見比べるのも一興。本来の監督の意図するところはこちらのほうがよく分かり、特に旧三部作の方のエンディングとしては「ローグ・エディション」を見ておいたほうが良いだろう。これだと希望の2023年でボビーとローグが付き合っている描写もそんなに変な感じなく受け入れられると思う。
 あと「ローグ・エディション」はミスティークの声が「FC」から引き続き牛田裕子氏に変わっていて(同時収録されている劇場公開版は変わらず剛力彩芽)、最初からこっちにしとけよ!と思ったりした。劇場で吹き替え版観た時はもちろん違和感はあったけど、そんなに下手ではなかったので彼女の声優活動自体は否定しないし。今後大いにやって演技に研鑽を加えて欲しいと思うけれど、やはりシリーズ物は決まった役者で一貫して欲しいと思う次第。「アポカリプス」でもミスティーク役は牛田裕子です。

 さて、本題である「X-MEN:アポカリプス」。一応新三部作の完結編ということになっている。ただツイッターのTLなどを見たところ賛否両論といったところ。パッと見た感じ、旧三部作に特に思いれなく「FC」からファンになった人はチャールズとエリックの友情(あえてBLとは言うまい)物語として見る傾向があり、その点ではどうも本作には不満、といった様子。一方で旧三部作からずっと見続けた場合、完結編、それもブライアン・シンガーの手による物として見事作り上げた感慨深い作品、という感じか。僕はどちらかと言うと後者。「FC」も好きだけれどこの実写版X-MENシリーズはあくまでブライアン・シンガーの物、という意識が強い(僕がシリーズの中で一番好きな作品は「X-MEN2」)。後はコミックスからの再現みたいなシーンも多い。コミックスが日本に本格的に入ってきた頃(ジム・リーX-MEN創刊号!)から読んでいて、映画も最初から追いかけてきた者にはご褒美でもある。ちなみにシリーズでも悪名高い「LS」だが、僕も公開当時からずっとシリーズでも一番嫌いな、なんなら許せない作品という感じだったんだけど、「DoFP」の登場により時系列的な最終作ではなくなったことで、長いシリーズの橋渡し作品としてああいう物があってもいいかな、と思えるぐらいの位置づけにはなりました。
 キューバ危機、ベトナム戦争のパリ和戦条約など各年代の重要な出来事を背景としてきたが、本作1983年は特になし。ただ過去からもずっと続いてきたアメリカとソ連に代表される西側と東側の冷戦による最終戦=核戦争の危機が最高に高まっていた時期でもあるだろう。ところどころで大統領がタカ派レーガンであることに言及されたりする。そんな起きるかもしれない核戦争への恐怖、人類全体への絶望感、そんなものが背景にある(後は単に80年代ブームもあると思う)。本作の世界観特有のミュータントに関して前作のクライマックスの出来事で一般にもミュータントの存在が認知されたことに。大統領を襲ったのもミュータント(マグニートー)なら救ったのもミュータント(ミスティーク)ということで最初の「X-MEN」「X-MEN2」ほどホモ・サピエンス(人類)によるホモ・スペリオール(ミュータント)への差別はひどくないのかもしれないが、その辺はまだこの後の歴史によって、なのかもしれない。
 それでは例によって各キャラクターごとに簡単に。

X-MEN

 今回はついにチャールズがつるっぱげになる!「FC」でキャスティングされた時勢い余って自分て剃って、でもまだその予定ではなかったため全編カツラで撮影したマカヴォイだが、念願叶った。「FC」ラストで車椅子になり、「DoFP」では薬で歩けるようになったもののテレパスとしての能力は使えない、という感じだったが、今回は基本ずっと車椅子で、その辺でも本来のプロフェッサーXに近い感じに。マグニートーにコンタクトを取ろうとしてアポカリプスにその能力に目をつけられる。アポカリプスの新たな器となる儀式の最中に髪の毛が抜けていくという仕様。
 後半は囚われた状態だったりするけれど、前半は結構アクティブに行動し、特に過去に記憶を消したモイラ・マクダガードに対してはかなりお茶目な様子も伺える。

 新シリーズでは主人公格のレイブン・ダークホルム。前作で大統領を救ったことでミュータントならず一般の人々にも英雄扱いされているが、本人はそれが気に入らず、地道に虐げられているミュータントの救助活動を行っていた。ナイトクローラーを救う過程でマグニートーの身に起きた悲劇を知りチャールズのもとへ。ナイトクローラーと一緒にいるシーンは色々と興味深い。多分この実写シリーズでは反映されていないと思うけれど、コミックスではミスティークとナイトクローラーは親子(父親は「FC「」で出てきたアザゼル)。後は「X-MEN2」でもこの二人は印象深い会話を残していた。「FC」ではミスティークが悪に走った(マグニートーの側についた)きっかけを描き、「DoFP」では旧三部作と違う道を歩むに至った経緯を描いたが、本作最後では「恵まれしものの学園」の教師、若きX-MENの教官としての姿を描いたことで、明確に旧三部作のミスティークとは別者といえるだろう。

 新三部作では皆勤賞でチャールズ、エリック、レイブンに続く四番手。能力を発揮するときだけ青いけもじゃになる、という割と都合のいい感じではあるが、今回は学園の教師としても活動。プロフェッサーXの女房役として堅実に役割を果たす。

 コードネームはサイクロップスだが、本作ではまだその名前は出てこない。本来ならX-MENという物語の主人公、なのだが、実写映画シリーズではなにかと損な役回りを与えられてきた人物。高校で突然能力が発現しオプティックブラスト(目からビーム)を出すようになる。この能力は基本的に制御不可能で目を開いている間ずっと発射される。兄アレックスのつてで恵まれしものの学園へ。そこでジーンと運命の出会いを。アレックスとの関係はコミックスでは兄弟の兄貴だが、本作では歳の離れた弟に。両親も出てくるが一般人のようだ(コミックスでは宇宙海賊)。

 旧三部作のマドンナ。「北斗の拳」で言うところのユリア的存在。テレパステレキネシスの2つの能力を持つが実は「X-MEN2」や「LS」でも描かれたとおり最強のミュータントの一人であり、本作でもその一端は垣間見ることができる。

 本名カート・ワグナー。旧三部作のタイムラインより20年ほど早くX-MENと会遇することに。能力はもちろん性格も外見デザインも「X-MEN2」に登場した時とほぼ変化はなく、最初にこの「アポカリプス」でナイトクローラーが再登場すると聞いた時は、ブライアン・シンガーは本当にこのキャラクターが好きなんだなあ、と思ったものだ。ちなみに僕もナイトクローラーは大好きなキャラクターです。「X-MEN2」ではアラン・カミングが演じていたけれど、当然本作ではもっと若く描写されていて、コディ・スミット=マクフィーという人が演じている。かなりひょろっとした感じ。

 前作「DoFP」で初登場。飄々とした若きミュータント。前作でもマグニートーと関係があるっぽいことは示唆されていたが、本作では正式に息子と判明。時期的にはエリックがまだチャールズと出会う前、の50年代後半から60年ぐらいにかけてってことだろうか。演じるエヴァン・ピーターズの外見に劇中での時間経過(約10年)が反映されていないため具体的な年齢は(彼にかぎらず)判明しないのだが「DoFP」の時点でもしかしたらまだ10代前半だったりするのだろうか?そしてクイックシルバーといえば「アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン」の方でも登場し、双子の妹ワンダ・マキシモフ(=スカーレット・ウィッチ)が生き延びてその後のMCU作品にも出ているけれど、一応この20世紀FOXX-MENユニバースのクイックシルバーにも出てこないだけで双子のワンダが存在するそうです。
 前作のアクションシーンも最高だったが、本作の彼の活躍シーンもある意味この映画の一番の見所。

  • その他

 他にはウルヴァリンとアレックスが登場。ウルヴァリンはウェポンXの名前でストライカーのもとミュータント兵器として改造(アダマンチウム注入)されている。囚われた仲間を助けるべくジーンやスコットが行動を起こす時に登場。意識の混乱したローガンは基地内で大殺戮を行うのだった。この一連のローガンの登場シーンはバリー・スミスというアーティストの傑作コミック「ウェポンX」を元にしており、ローガンのビジュアルはかなり忠実に再現されている(違いはコミックスは下半身も裸だが、映画は下着履いてるところくらい)。演じるのはもちろんヒュー・ジャックマン。本作だけ見ているとかなり唐突な登場ではあるのだが、これは人気キャラクターのその人気にあやかってむりくり出したというよりは、この後続く新作「ウルヴァリン」への橋渡し、そして旧三部作でも見られたスコット、ジーン、ローガンの三角関係を彷彿とさせる目的もあるのだと思う。またジーンがローガンの精神を宥めることでジーンの癒し手としての強調も行われる。
 アレックス・サマーズはハボックとして前2作に引き続き登場。ミュータント能力が発現した弟スコットを学園へ誘う。ビーストと共にプロフェッサーXを支えるが今回悲劇の死を迎えることに。スコットのところでも述べたとおり本来はスコットの弟、だが映画では先に登場したこともあり兄という立場になっている。演じるのは引き続きルーカス・ティル。前2作では短髪であったが、今回は長髪に。また設定的には20年は経っているはずなのに全然老けておらず(彼にかぎらずこの映画は特にメイクなどに寄る年齢経過を表現していない)、長髪になったためかやけに中性的な美男子になっている。
 スコットやジーン、カートとつるむ若いミュータントとしてジュビリーも登場するが個人的にはジュビリーにはもっと主役級の活躍をして欲しかったのでちょっと今回の扱いは残念かな。

アポカリプスと黙示録の四騎士

  • アポカリプス

 本名エン・サバー・ヌール。最古にして最強のミュータント。古代エジプトで神として君臨していたが裏切りによって長期間の眠りにつく。83年に目覚め「適者生存」のもとミュータントに拠る支配を行おうとするが。コミックスでもX-MENの宿敵、マーベル全体でも最強のヴィランの一人だろう。設定的にもデザイン的にもあまりにコミックスらしさ全開なので実写での登場はないだろうと思っていたけれどついに登場!映画では次々と身体を入れ替えることで長寿を保ち、かつその入れ物がミュータントであった場合、その者の能力も獲得するという設定。コミックスでは分子を自在に操る能力で巨大化したりしていた。映画ではもうちょっと能力は弱いものになっているだろうか、予告編でも出てきた巨大化してチャールズを抑えこむシーンは二人の精神世界、アストラル空間での出来事で現実のものではない。この描写にはちょっとシャドウキングの要素も入っているのだろうか?
 前作の感想の最後の方でも書いたとおり、僕は最初に次回作でアポカリプスの登場を知った時はコミックスの「エイジ・オブ・アポカリプス」を連想したのだが、本作では現代(1983年)を舞台としタイムトラベル的な要素はなし。アポカリプスが核兵器を全て宇宙に追いやるシーンは「スーパーマンⅣ/最強の敵」でスーパーマンが世界中の核兵器を太陽に破棄するシーンのパロディかな、とも思ったがどうなんだろうか。もちろんスーパーマンの方は賞賛されるのに対して、アポカリプスの行為や人類への脅威とみなされるのである。
 演じるのはオスカー・アイザック。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の爽やかパイロットとは思えぬ怪人ぶり。ちなみに感想書いてませんが、この間には「エクス・マキナ」の変態科学者なんかも演じてます。「るろうに剣心」の鯨波兵庫の元ネタともなったデザインはもちろん実写にして違和感がないようにアレンジされているけれど、概ねコミックスの雰囲気をそのままに描写されコミックスの映像化としては期待に応えたものに。もうちょっと普段から巨漢として描写されていたら完璧だったかな。

 エリック・レーンシャー。虐げられたミュータントの戦うカリスマ。前作の後ポーランドで過去を隠し新たな家族を見つけひっそりと暮らしていたが、ひょんなことから正体がばれ家族も失うことに。そしてアポカリプスにスカウトされ彼の四騎士の一人となった。このポーランドでの出来事は元々のマグニートーのオリジンエピソードの一つ。ナチスに拠るユダヤ人収容所での同胞と家族を殺されたエリックが戦後、今度はミュータントということでふたたび家族を殺されヴィランとなるきっかけとなる。今回はそのポーランドの家族に加え本人も知らないクイックシルバーという息子、更には擬似家族とでも言うべきチャールズやレイブンとの関係などで割りとふらふらしてる印象は強い(その点でもFCからファンになった人には不満のようだ)。ただ作者によってヒーローともヴィランとも描かれる彼の複雑な立場が物語を動かしていることも確かなのだ。ラストは最初の「X-MEN」のラストシーンと対になる台詞のやりとり。

  • ストーム(アレクサンドラ・シップ)

 オロロ・マンロー。後に強力なX-MENのリーダー的存在となる彼女もまだここではその日食うのもにも困るような生活をしている少女。エジプトでその力を使って食料を盗むような生活をしていたところをアポカリプスと出会い彼の四騎士の一人となった。ミスティークを英雄としてあこがれを抱いており、後にアポカリプスから離反する事となる。彼女のモヒカンに近い容姿、エジプトで盗みを働いて暮らしていた、などもコミックスに比較的忠実で他の二人と違いこちらは後にハル・ベリーが演じることになるストームと同一人物である。

 黙示録の四騎士。精神力を実体化したサイ・ブレードを使う女戦士。コミックスでは本名ベッツィ”エリザベス”・ブラドック。イギリスのヒーロー、キャプテン・ブリテンの妹でプロフェッサーXやジーン程ではないがテレパスでもある。元々は白人だったのだが、とある事件で日本人(カンノン)の身体になってしまった。これまで実写映画シリーズに登場したキャラクターの中でもパトリック・スチュアートのプロフェッサーXを除けばそのコスチュームが最もコミックスに忠実なキャラクターで、予告編などで最初に見かけた時は、ついにここまで来たか!と感慨深く*2
 外見はコミックスに忠実、ではあるけれど、彼女と次のエンジェルに関しては映画の場合本名が設定されておらず、コミックスそのままのサイロックやエンジェルが登場した、と言うのとはまた別のよう。

  • エンジェル

 翼の生えたミュータントだったが、その美しい翼に怪我を負い、やけになっているところをアポカリプスから金属の翼を与えられ四騎士の一人となった。こちらも原作コミックスではX-MENのオリジナルメンバーでもあるウォーレン・ワージントン3世ことエンジェルで金属の翼を与えられ彼の四騎士の一人となった経緯もほぼそのまま採用(ただコミックスでは肌の色も青くなっている)。黙示録の四騎士はデス(Death)、ファミン(Famine)、ペスト(Pestilence)、ウォー(War)の四人からなり、その都度構成は入れ替わるのだが、エンジェルはその中でもデスとして名高い。最もこのデスはウルヴァリンガンビットもサイロックもバンシーも就いていたことがあるのだけれど。映画では特に四騎士の中のどの役割かは語られないけれど、ことエンジェルに関してはデスで間違いないかな、と。ただこちらもサイロック同様本名は設定されておらず、いわゆるオリジナルX-MENであるウォーレンとは似て非なる別人といったほうが良さそう。

  • その他

 ミスティークがナイトクローラーを伴いやってきた偽造パスポートを作ったり、サイロックの元の雇い主だった裏社会に生きるミュータントの何でも屋みたいな役割だったキャリバックもコミックスでは黙示録の四騎士の一人(やはりデス)。今回はアポカリプスには相手にされず。
 古代エジプトでアポカリプスに仕える四騎士はビーストタイプやフォースフィールドを使うタイプなどファンタスティック・フォーのパロディではないかな?と思うのだがちょっと詳細不明。

 後は人間キャラでモイラ・マクダガードとウィリアム・ストライカーが出てきます。モイラは「FC」で出てきたものの、その時の記憶はチャールズ消されている状態。20年経ってCIAのそれなりの役職に就いているようだが、自ら前線にも出張って、相変わらずのうっかりさんからアポカリプスを現在に蘇らせてしまう。本人も特にそのことに気づいていないようだが、今回の元凶はこの人です。演じているのはローズ・バーン
 ストライカーは前作に引き続きジョシュ・ヘルマンが演じているが普通の軍人ぽかった「DoFP」に比べると、ミュータントを兵器に改造する計画の責任者として「X-MEN2」の役割に近づいているか。彼ももしかしたら「ウルヴァリン」の方の新作にも登場するのかも。


 さて、一応完結編ということにはなっているし、本作は新三部作としては未来に希望を託した大団円となっている。だが、まだこの世界を舞台とした作品は続き、この作品の中でも「ウェポンX」を出したり(エンドクレジット後の引きも)、完全に終わりというわけではない。「ウルヴァリン」と「デッドプール」の続編が残っている。
 新三部作は60年代、70年代、80年代と描いてきたが、実際のところ劇中時間で20年間、作品として3作かけてやっとX-MENが本格始動するまでを描いたに過ぎない、ともいえる。最初の「X-MEN」が2000年代を舞台(2000年製作の作品で舞台は「そう遠くない未来」)としているので1990年代が抜けている。コミックスではジム・リークリス・クレアモントによって「X-MEN」が「世界で一番売れたコミックス」となった頃で、この頃のエピソードも名作揃い。このまま映像化しないのはもったいない。スコットやジーン、ストームが恵まれしものの学園で学びつつ、教師としてもX-MENとしても一人前になっていく姿を是非観たい。もしかしたらウルヴァリン」の新作で90年代が描かれるのかもしれないが、是非本編でも観たいところだ。
 またX-MENの物語は確かにチャールズ=プロフェッサーXとエリック=マグニートーの友情と別れ、イデオロギーの対立などが重要な柱としてあるが、もう一つサイクロップス=スコット・サマーズとジーン・グレイの恋の行方、というのも重要な柱だ(それに比べるとローガンの過去というのはウルヴァリン個人ではともかくX-MENの本筋とはいえない)。実写映画シリーズでもスコットとジーンは恋人として描かれてきたが、それほど重要視されてきたとはいえない(特にスコット)。なので是非この2人を中心とした本作の延長上にある物語が観たい。「デッドプール」の続編ではケーブルが出てくるとデッドプール本人が言っていたが、これが冗談じゃなく実際のものであるならば、その補足としてケーブルの誕生秘話にするといいんじゃないかな。そうすればタイムトラベルの要素もあるし(ケーブルはスコットとジーンのクローンであるマデリーンの間に生まれたミュータント。諸事情で未来で育って過去(現在)にやってきたためスコットたちより歳を重ねている)。普通に考えると最終的に「DoFP」の希望の2023年が待っているわけだから、どんな困難が訪れようと未来は確定されている、と思うかもしれないが、そこはそれ、もしかしたら第3の未来が待っているのかもしれず平和は確約されてはいないのだ。
 あとね、今回サイロックがほぼ原作のコスチュームを再現して登場し、第一作の時点では出て欲しいけど設定からデザインからあまりにコミックスぽ過ぎて実写映画での登場はないだろうなあ、と思っていたアポカリプスが登場したことでもう殆どの枷は外されたと思う。ということはミスター・シニスターが出てもいいんじゃないでしょうか?

時代や作者によって多少描写は異なるものの、こんな格好のキャラクター。X-MEN世界ではコロッサスと並ぶ角刈り兄さん。
 ミスター・シニスターは最強のミュータントの創造を追い求める人物で、スコットとジーンの間に生まれる子供こそその最強のミュータントとなる存在である、と確信し暗躍する人物。これならスコットとジーンを中心とした物語の敵役としてはピッタリだし、いまなら実写にしてもそんなにバカっぽくならず実写としての説得力を持ちながらコミックスのデザインの要素も生かせる描写が可能なのではないだろうか。
 というわけで僕はまだまだこの20世紀FOXのX−MENユニバースが観たいのです。

We are livin’ livin' in the nineties
We still fight, fightin' in the nineties

TOUGH BOY」byTOM☆CAT(「北斗の拳2」オープニングバージョン)

僕らは90年代に生きて、そして戦っている。今もまだ。

Ost: X

Ost: X

*1:グレムリンの新作はまだですか?

*2:今のコミックスの映画化の隆盛の基礎を作ったのは2000年の「X-MEN」だけどコミックスそのままに近い描写を違和感なく見せるようになったのはその後の「スパイダーマン」シリーズやMCUの1作目「アイアンマン」によるところが大きいと思う

金の病と極上のエンターテインメント ONE PIECE FILM GOLD

 この夏の邦画では実は一番楽しみにしていたのは「シン・ゴジラ」ではなく「ONE PIECE FILM GOLD」の方であった。ただ、「シン・ゴジラ」の方の盛り上がりが凄かったので優先順位を繰り上げゴジラを先に観た。で、「シン・ゴジラ」は確かに凄い作品で(手放しで褒めるにはちょっと抵抗はあるのだが)、逆に「ONE PIECE」の方が置いてけぼり状態だったのだが、やっと観に行ったのだった。そしてこれがもっと早く観ればよかった!と思うほどの大傑作でした。ちなみにこの日は「仮面ライダーゴースト動物戦隊ジュウオウジャー」とはしごする個人的キッズデー。夏休みということもあり子供も多い中での鑑賞でした。「ONE PIECE FILM GOLD」を鑑賞。

物語

 新世界の海原を進む麦わらの一味。行き先はそれ自体が巨大な船でありながら独立国として成り立つ「グラン・テゾーロ」。そこでは常に華やかなショーが行われ海賊も海軍も関係ないエンターテインメントシティ。
 ルフィたちはグラン・テゾーロの王にして世界政府にも強い影響を持つ黄金帝ギルド・テゾーロからVIP扱いで待遇を受ける。華やかな裏で持つものと持たざる者ん圧倒的な格差が存在し、テゾーロの圧政に苦しむ人達がいた。麦わらの一味はテゾーロの罠にはまるが…

 本作は「ONE PIECE FILM STRONG WORLD」「ONE PIECE FILM Z」に続く原作者尾田栄一郎が製作、深く関わり、原作の流れに組み込まれる形を持つ作品の第3弾。「STRONG WORLD」以降のONE PIECE映画はやはり原作ファンだけどアニメは観ない、という人達も巻きこんだことでそれ以前のONE PIECE映画とは興行成績が段違いだったらしい。実際僕もアニメ「ONE PIECE」の映画を劇場まで観に行ったのは「STRONG WORLD」が初。そして以降ジャンプ連載の作品のアニメの映画化作品は原作者が深く関わるのが定番となり、「NARUTO」「銀魂」「ドラゴンボール」「HUNTER × HUNTER」などが続くことになる。もちろんそれ以前にも作品として評価の高い作品なんかもあったりはしたのだが(細田守監督の「オマツリ男爵と秘密の島」とか)、やはり漫画原作のアニメオリジナルエピソードって妙な違和感が多くて原作ファンには「コレジャナイ感」が強いんだよね。これは昔から「キン肉マン」とか「聖闘士星矢」とかの劇場オリジナル作品から連綿と続く(北斗の拳はちょっと別)流れだったのだが、それを原作者が関わることでその違和感を解消した、ということで「STRONG WORLD」は映画史に残る作品であっただろう。
 で、本作は予告編等で見る限り、映像的には文句なしであろうけれど、物語的にはどうなんだろう?という疑問はあった。と言うのは前2作の敵は金獅子のシキにしてもZ先生にしてもそれ以前のONE PIECEの世界との因縁が語られていて(シキもZ先生もガープやセンゴク、ロジャーや白ひげと同世代)、それを通してすでにルフィたちとの因縁がつけやすかったのだけれど、本作の敵ギルド・テゾーロはぽっと出のキャラに思えたからだ。でも本作はその分悪役として魅力的に描かれていて良かった。
 原作に組み込まれる形、とはいったけれどちょっと矛盾はあって、この映画はドレスローザの戦いが終わった後の物語だが、麦わらの一味のクルーは全員揃っている。現在原作もアニメも一味はバラバラに行動している状態でしばらく全員集合して、また悠々自適に海原を行く、という事態になるのはかなり後になりそうだ。だから時系列的には、ドレスローザ→→ゾウ(TVアニメの現在)→ホールケーキアイランド(原作の現在)ときてその後に本作が位置する形になるのだろうか。

 映画化されるとこれまで着たきりだったキャラクターまでが急にファッショナブルになるのがちょっと嫌、と言うのは前作の感想で書いたのだが、本作はそのへんも冒頭の衣装ぐらいで、後はちゃんと必要に迫られて着替えているので不自然には感じず。
 物語的にはちょっと「ルパン三世」を彷彿とさせる雰囲気もあって(共にアウトローの物語だし)、過剰に露出の多い女性キャラなども多いんだけど今回はカジノ(だけではないが)が舞台ということもあって批判の対象になるようなものでもないだろう。途中で出てくるテゾーロマネー(天竜人への献上金)強奪のプロセスも「ミッション:インポッシブル」とかほど緻密でもなく、いざとなったら身体能力でなんとかなる「ルパン三世」っぽい感じ。この辺は「ONE PIECE」の世界観(単純に設定だけでなく、尾田栄一郎の作風も含む)をどのくらい理解しているかでありえないと思うか面白いと想うか別れそう。
 しかし、とにかくアニメーションの醍醐味動きの快楽とドラマがきちんと組み合わさっている。邦画特有のもっさり感も無し!
 オープニングからラストのバトルまで少なくとも映像的には満足できるはず!
 物語を通してお姫様(助けられ役)を担当するのはなんとゾロ!(もちろん後半ではアクションもあり)そしてナミが参謀として活躍するのもいいです。ウソップが情けないところを見せるのはもはやその後の格好いいシーンのための振りにしか見えない。ルフィについては後述。

 さて、テゾーロである。前作「Z」は実質「Z先生が主人公の物語にルフィたちが助演した」といったほうがいいぐらい敵役であるZ先生の背景が細かく描きこまれていた。金獅子のシキは映画登場より前に原作で言及され、その後映画公開前には原作者によるシキを主人公とした読み切りも描かれた。それに比べるとテゾーロは背景が少ない。劇場で特典として配られた第七七七巻には尾田栄一郎によるテゾーロの人生が詳細に解説された設定が載っていたりするのだが、映画本編ではほんの少ししか出てこない。劇中で出てくる過去は幼いころに父を亡くし、生活に苦労し、母に虐待に近い扱いを受ける子供時代。ヒューマンショップ(奴隷売買の場)で知り合った愛する女性を救うべく努力するもののかなわず、彼女は天竜人の奴隷になり、テゾーロもまたマリージョアにて奴隷になる。テゾーロの背中には大きな星の形の刺青か火傷の痕かのようなものがあるが、これも天竜人の刻印を消すためにその上から入れたものだろう。ここまでが劇場版のみでうかがい知れるテゾーロの過去。
 七七七巻で補足するとテゾーロがマリージョアから脱出できたのはハンコックたちと一緒、つまりフィッシャー・タイガーのおかげである。また彼は悪魔の実ゴルゴルの実(一度触れた黄金を自在に操る)をドフラミンゴを騙して手に入れたが後にドフラミンゴとは同盟を結んでいる。テゾーロと一見無関係の麦わらの一味との因縁はドフラミンゴ経由といってもいいだろう。ドフラミンゴは「ONE PIECE」全体でもかなりの悪党だが、テゾーロと今回の物語はドフラミンゴとドレスローザの物語をなぞっているともいえる。
 これらのテゾーロの過去は時折フラッシュバック的にテゾーロが思い出すだけで具体的に過去パートがあるわけでもないし、テゾーロの口からルフィたちに向けて語られるわけでもない。観客もONE PIECEの世界観や過去のエピソードを知っていれば容易に理解は可能だが、知らないひとでも漠然とした形で感じるのみとなるであろう。だからルフィとテゾーロは純粋に現段階のいざこざのみで戦うことになる。これはテゾーロに悪役としての挟持をもたせると同時にそれを倒すルフィに枷を付けないことに成功している。山路和弘の熱演も見事。
 今回もキャストには豪華芸能人キャストが起用されている(いわゆる豪華キャストと言った場合吹替ファンと一般で豪華の意味は違うのだが)。ナミと因縁があるカリーナに満島ひかり、テゾーロ一味の女幹部バカラ菜々緒、警備主任であるタナカさんに濱田岳、ディーラーである巨漢ダイスにケンドーコバヤシといった具合。この中で事前に知っていたのは濱田岳のタナカさんだけで、身体に比して頭がでかいそのキャラはもっと小さいマスコット的なキャラクターかと思っていたら、身体は普通で頭がでかいキャラだった。満島ひかり菜々緒は最初ちょっと違和感があって観ながら「あ、タレント吹替なのかな?」と思ったけれど全然良かったです。満島ひかりはドラマの「ど根性ガエル」で平面ガエルピョン吉の声を担当していたけれど純粋なアニメーションはこれが初だそう。ケンドーコバヤシに至っては全く違和感を感じなかった。
 出てきて喋った途端誰だか分かったのは北大路欣也のレイズマックス。ただこれもCMなどで北大路欣也の声を多く聞いているから分かった、というだけで声優として違和感があるというわけではない。
 他には竹中直人が「STRONG WORLD」に引き続き出演し(ただし今回は役割はずっと小さい)、古田新太三村マサカズ小栗旬なんかも出ていたのだけれど、いわれなければわからないレベルでありました。多分、僕がこれまでに観たアニメ映画では本作は一番タレント吹替が確かに豪華で、でも(悪い意味での)タレント吹替と感じさせない作品だと思う。
 キャラクターのほうのゲスト出演では原作ではまだ明確にされなかったCP0になったロブ・ルッチやスパンダイン、そして革命軍からサボなんかが出てくる。サボの声は古谷徹で、これはエースの古川登志夫、ルフィの田中真弓というこれまでも何度も共演してきた関係性*1を利用した起用なのだけれど、なんだかサボの声はいわゆる古谷徹の声(透明感のあるヒーロー声)とはちょっと違っててわかりにくい。これは何か意図的なものなのだろうか。

 さて絶賛してきたが、もちろんこれは原作を読んできた、ある程度前提を共有している者の見方である。当然駄目だったという人もいるだろう。例えば主人公であるルフィのキャラクターはこれまでも散々話題にされてきた。ルフィはいかにも少年漫画の主人公っぽい造形である一方、その心情を示す描写がなく、また表情も黒丸の星のない瞳で描かれるため、怒りや笑いなど極端な感情以外の微妙な表現がなく、逆に何考えているか分からない、と言われることもある。これは考えるより先に動くというルフィのキャラクターを最大限に活かすための手法だ。また弱者に寄り添って慰めてくれるキャラクターではない。弱いもの、虐げられているものには「なぜ歯向かわない!」と厳しくあたり、相手が動いて初めて手を貸すタイプ。その辺で毛嫌いされることもある。
 後は多分大多数の読者以上にルフィは自分たちが所詮は悪党である、自分たちは自分ルールで動く無法者って意識している。僕たちはつい少年漫画の典型的なヒーローとしてルフィを捉えて、そこからはみ出るとおかしいと思ってしまうが、ルフィたちは自身がアウトロー、犯罪者、賞金首、そして海軍に追われる海賊であると自覚している。
 今や世界的にも広く読まれる「ONE PIECE」だが、僕は別に少年漫画が青少年の教育に貢献しなきゃならないとは思わないので、このへんのルフィたちに対する非難は的はずれなものが多いなあ、とは思ってしまうのだ。

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シリーズ前作。Z先生には熱烈なファンが付いていて、その同じ敵役ということで今回のテゾーロを比べるとちょっと今回は物足りなく感じる人もいるかもしれない。

シリーズ前々作。原作者がガッツリ関わるジャンプ作品の映画作りの流れはここから始まった。

ONE PIECE FILM GOLD オリジナル・サウンドトラック

ONE PIECE FILM GOLD オリジナル・サウンドトラック

TVSPとして放送された前日譚。こんなにハマると思っていなかったから放送見なかった。もったいなかったな。
 
 何度も言っている通り、原作ファンであの世界観をどの程度理解しているかによって満足度は違うとは思うけれど(もちろんそれほど知らなくても及第点の満足度は得られると思う。逆にONE PIECEなんて全く知らねーよ!ってのはさすがにこの作品の知名度を考えるともはや甘えだと思う)、個人的には過去三作の中でも一番の出来。これまで観たアニメ映画の中でももしかしたらベストに入るのではと思う作品でした。オススメ!黄金と聞いて聞いて思い出す作品。黄金に囚われた者の末路。

*1:ガンダムならアムロとカイ(最近だとシャア(シャンクス)の子供の頃を田中真弓が演じてたりする)、ドラゴンボールならヤムチャとピッコロ、クリリン

現実、虚構、現実への再変換 死霊館 エンフィールド事件

 前回記事の「シン・ゴジラ」のキャッチフレーズは「現実(ニッポン)対 虚構(ゴジラ)」だったのだけれど、このフレーズ(ニッポンやゴジラと言ったフリガナは無視)が一番しっくり来るのはやはり実際に起きた事件の映画化!を謳った実録映画の類であろう。現実はどうだったのか?それが映画化にあたってどのように脚色、虚構部分が追加されているのか?という部分でも楽しめる作品群である。
 今回観たのは多分2013年に当ブログで一番アクセス数を稼いだ(そのほとんどは「三角絞めでつかまえて」さんからのリンク)映画「死霊館」の続編。再び実在した超常現象研究家夫婦、ウォーレン夫妻の活躍を描いた第2弾「死霊館 エンフィールド事件」を鑑賞。

物語

 ペロン一家能事件を解決した後、ウォーレン夫妻はアミティビル事件の調査に赴く。そこでロレインは尼僧の格好をした邪悪な何かを見る。そして夫の死の幻視も。
 イギリス、ロンドンのエンフィールドでは母子家庭のホジソン一家、その次女であるジャネットの身に不可解な事態が起き、それはやがて警察や周囲を巻き込んでいく。最も長く続いたポルターガイスト現象とされるエンフィールド事件の始まりである。
 ウォーレン夫妻はエドの死を予感させるロレインの幻視に不安を抱きつつも事件の解決のためにイギリスへ向かうのだった……

前作の感想はこちら。

 現実では前回は1971年。アミティビル事件が1976年、そして今回の事件が1977年である。映画の中では比較的連続して3件の事件が起きているように描かれている(ウォーレン夫妻の娘に特に成長が見られない)。この3件、一応全て実際に起きた事件であるが(本当に心霊事件だったのかはまた別)、おそらく一番有名なのはアミティビル事件だろう。「アミティビルホラー」として「悪魔の棲む家」など映画化もされている(「amityville」で画像検索すると「horror」を付けなくてもあの特徴的な舞台となった家ばかり出てきます)。なので前回の最後に次の仕事がアミティビル事件とほのめかされた時は続編があるならガッツリアミティビル事件が舞台かな?とも思ったのだが、本作の冒頭部分であっさり終了。ただこの映画のスタンス(あるいは本物のウォーレン夫妻の見解か)ではアミティビル事件も実際に心霊現象があったもの、としてとらえられている(現実にはほぼ嘘だったことが判明済み)。
 本作の舞台となっているのはイギリスはロンドン。史上最も長く続いたポルターガイスト現象として有名だそうです。

 出演はウォーレン夫妻は前作に引き続きパトリック・ウィルソンヴェラ・ファーミガ。前回同様(基本はカトリックの立場から)、夫のエドが科学的に、妻のロレインが霊媒体質を使って霊感などに頼って調査、という役割だが、前回よりはっきりしているように思える。監督は前作同様ジェームズ・ワン。ホラーだけでなくアクション大作である「ワイルド・スピード SKY MISSION」もよく出来ていたのでもう安心して観れる監督ではあると思う。
 心霊現象の被害に遭うホジソン一家は子供4人の母子家庭。別れた夫がきちんとお金を入れてくれず経済的に困窮している。この辺は前作のペロン夫妻も同様だった。アミティビル事件も貧乏というわけではなかったが、色々と金銭的な問題が原因だ。貧乏が悪魔を引き寄せる。金持ちが悪魔に取り憑かれるのって女優の娘だった「エクソシスト」のリーガンぐらいじゃないか。悪魔が本当に人間世界を混乱させたいなら貧乏人を困らせるより金持ちに取り憑けばいいんだよ!てか金持ちが悪魔に違いない!きっとそうだ!(時期的にこの事件が映画「エクソシスト」の影響を受けた可能性も否定出来ない)
 ホジソン一家が住んでいるのはエンフィールドの家は前作の広い屋敷と比べるとロンドン郊外の建売住宅、というか日本で言うなら長屋に近い。もちろん日本より広いのだが同じ構造の家がズラッと並んでいる。なので前作に比べると幽霊屋敷、という印象は薄い。映画のトーンが全然違うけれど「パディントン(観たけど感想書いてない物件)」に出てきた家と似た造り。
 母親を演じているのはフランセス・オコナーでやはり前作での母親役リリ・テイラーと似た雰囲気に。このフランセス・オコナーはリリ・テイラーとは違って「悪いことしましョ!」(これも悪魔が出てくる!)の明るいイメージが強いので最初は気づかなかった。子供たちは女の子二人、男の子二人の構成で全員利発そうなお子さんで好感度大。特に重要な役割を果たすマディソン・ウルフはナタリー・ポートマンに似た感じの頭が良さそうな美少女。やはり前作のジェイミー・キングとはまた別の方向に頭良さそう。

 映画は上映時間も長く(133分)、ホラー映画としての部分と人間ドラマとしての部分がどっちも同じくらい充実しているので結構観終わった後にどっと疲れが来る。でも見応えがあるしとても良く出来ていたと思う。(超常現象の類を一切信じてないこともあって)僕自身はもうちょっと科学的見地によったものであってもいいんじゃないかと実録路線を謳う以上思うのだが(あくまでインチキ、ジャネットのヤラセを疑う女性学者がちょっと悪人ぽい印象で落ち着いてしまうのは残念)、映画としてはかなり面白かった。
 ところで「エクソシスト」でもこの作品でも舞台はイギリス(エクソシストの方はモデルになった事件はアメリカ)なのだが、わざわざカトリックの人間が悪魔祓いをするのがちょっと気になった。イギリスと言えば英国国教会。いわゆる新教だが他のプロテスタントとはちょっと成り立ちが異なるため、新教の中ではカトリックに近い教義や儀式を持つはず。プロテスタントは確か幽霊の存在を認めていないので仕方ないが国教会では解決できないのだろうか。


 ラストは前作同様、実際の事件で撮影された写真と映画のそれを再現したシーンを比べるようなエンドクレジット。
 で、やっぱり気になるのは現実のエンフィールド事件はどうだったのか?ということ。映画観終わった後軽く調べたのだけれど、あれ?もしかしてウォーレン夫妻は関わってない?!全く無関係ということではないみたいだけど、より深く関わっているのは映画でも出てきたモリス・グロス(演じるのはサイモン・マクバーニーで「マジック・イン・ムーンライト」で彼が演じた役柄と対称となるような感じ)で、彼は劇中でもちょっと彼の口から語られた娘の交通事故死をきっかけに心霊現象の研究に取り組んだそう。実際の事件の概要を読む限り、彼を主人公として彼と事件の関わりを中心に描いたほうがよほどドラマチックなんじゃないか、と思えた。もしこの映画が最初から「死霊館」の続編として企画されたのでなければ彼が主人公となっていただろう。あと、実際の事件は特に劇的な形ではなくある日突然ポルターガイスト現象は終わったそうです。得てして現実はそんなもん。

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 「死霊館」冒頭で出てきたアナベル人形の話を描いた外伝。ウォーレン夫妻は出てこない(というかウォーレン夫妻が関わる前を描いた作品)。アナベル人形は本作でもちょこっと出てきます。

監督の前作、前々作。

Conjuring 2 - O.S.T.

Conjuring 2 - O.S.T.

 前作の舞台のモデルとなった家は前作ヒットの後、家を訪れる人が後を絶たず家の住人がワーナーと監督を訴える事案が起きたりしているそうです。現実は虚構より怖い。げに恐ろしきは人間なり。

異形から生まれたさらなる異形 シン・ゴジラ

 思えば去年の今頃は映画「進撃の巨人」の記事が自ブログ史上かつてないバズり方をして畏れ慄いていたのであった。なんとなくブログの更新頻度が遅くなり色々と低温火傷のような感じで自分にも影響を与えていたのである。あれから一年。その実写版「進撃の巨人」のスタッフとキャストの多くがそのままスライドして制作した映画「シン・ゴジラ」を鑑賞。いや実際のところはどうするか迷ったんですよ。監督は樋口真嗣だし(特技監督としては信用している)。でもやっぱりゴジラの新作といえば観に行かないわけにはいかないのであった。

物語

 海上保安庁東京湾で乗員の消えた船を発見。ほぼ同時に大量の水蒸気が東京湾から噴出、アクアラインでも崩落事故が起きた。政府は事故の解明と対策を急ぐが原因が未知の巨大生物の存在である可能性が浮上。間もなくその巨大生物が東京都に上陸する。
 その巨大生物は這いずるように都市を蹂躙するがやがて二足歩行に変化する。自衛隊のヘリが攻撃を開始しようとしたところで巨大生物も東京湾へ消える。
 巨大生物の通った後には放射性物質による汚染も確認され、体内に原子炉のような機関を備え、かつ自己進化を繰り返しながら成長する究極生物である可能性が高くなっていく。アメリカからこの生物を研究していたとされる日本人科学者の情報を与えられ、その学者の残した資料に残された大戸島の伝説に伝わる怪物「呉爾羅」から巨大生物は「ゴジラ/GODZILLA」と名づけられる。対策班はゴジラの体内をめぐり体内の原子炉からの熱を排出させる役割を果たす血液を凝固させる薬を経口投与することでゴジラの活動を停止させる計画を立てる。
 二度目のゴジラ上陸。しかしゴジラは予想を超えて大きく進化し、またとても生物とは言えない攻撃手段も備えていた。自衛隊在日米軍もなすすべがないままゴジラにやられ、ゴジラは活動を停止。国連安保理は東京への核攻撃を決める……

 面白かったです!正直予告編は全く面白そうに感じず(特に初期のゴジラの尻尾と逃げる民衆というやつ)、あれなら予告編作らないほうが良かったんじゃないか、と思ったぐらいだったのだけれど、本編の映像はとてもスリリングでした。ただ手放しで褒められないという部分も大きく、好きか嫌いかで言ったらちょっと嫌いの方へ傾く…って感じかも。例えば「進撃の巨人」で見られたような無駄なエロとかはありません。今回は庵野秀明樋口真嗣の共同監督ということだけれど、脚本も担当した庵野秀明が総合演出、樋口真嗣は特撮部分という感じに分かれた模様。やっぱり脚本って重要だよねえ。登場人物の多くはプロフェッショナルであり、無駄なドラマ(恋愛や家族の描写など)が排除されているのである意味ではストイックな「働く人賛歌」ともいえる。一方でその描き方に好き嫌いは分かれそうで僕の場合あんまり好みではなかったかな、という感じ。ただこれは後述するけれど、あくまで僕の好みの問題であって良い悪いの問題ではない。
 庵野秀明といえば「エヴァンゲリオン」なのだが、僕は「エヴァンゲリオン」は最初のTVシリーズとその映画版はひと通りハマったけれど、今まだ続いている新しい映画シリーズは特に興味はない状態(TVで放映されたら見る、という程度)。もう僕の中では旧劇場版であのシリーズはしっかり完結しているものなので。ただ庵野秀明監督というとアニメ監督という印象の強い人もいるだろうけど、学生時代から(「アオイホノオ」参照)特撮にも造詣が深い人ではある。だからあんまり意外な人選という気はしなかった。今回の作品も見終わってみればどこを切っても庵野印!というような紛れも無い庵野秀明の映画ではあった。
 映画は2014年のハリウッド版レジェンダリー・ピクチャーズの「GODZILLA ゴジラ」の大ヒットを受けて製作が決定したそう。以前のハリウッド版、ローランド・エメリッヒ監督(「インディペンデンス・デイ:リサージェンス公開中!)の「ゴジラ/GODZILLA」の製作が決まった際には当時日本で展開していた「平成VSシリーズ」を終了させた*1のだが、本来ハリウッド版がシリーズ展開している間は日本では製作できない契約だったのがエメリッヒゴジラが興行的に失敗したため、再び国内のゴジラシリーズを再開した経緯を持つ(「ゴジラ2000」に始まるミレニアムシリーズ)。だからてっきり今回もそういう契約だったのかな?と思ったのだが違ったようだ。レジェンダリー版も続編は企画中ですでに公開が決まっている新しい「キング・コング」と共通の世界を持ち、単独の続編はもちろん、コングとのVS作品も予定されている。
 なのでハリウッド版とは全く別に今度の「シン・ゴジラ」は制作されているようだ。
 で、今までの国内のゴジラシリーズは全て1954年の「ゴジラ」を基点とし、幾つか時系列的なシリーズ分けができるがいずれも1954年「ゴジラ」の続編という形式を取っていた。ハリウッド版の2作は共に全くの新作であったわけだが(ギャレゴジの方はちょっとオマージュ的に1954年が重要な節目とはなっている)、今回の「シン・ゴジラ」は日本のゴジラとしては初めて1954年の「ゴジラ」から続くわけではない、全く新しい時系列のゴジラとなっている。王道の怪獣映画はむしろハリウッドに任せて日本は独自の新しい怪獣映画を切り拓くという感じか。もちろん、大きな背景には2011年の東日本大震災福島原発事故があるだろう。かつてまだ戦争の記憶が生々しい頃に第五福竜丸事件などが起きた核への恐怖を怪獣映画というフィクションに託したように、今度もあれから5年近く経ってそろそろその記憶をフィクションに昇華しようと試みたのか。

 今回のゴジラ。まずはそのビジュアルはかなり早い段階から公開されていたけれど、個人的にはとても魅力的に思えた。1954年の初代ゴジラを更に凄みを増したような様相に「ゴジラVSデストロイア」に出てきたバーニングゴジラを思わせる全身を彩る赤。2014年の「GODZILLA ゴジラ」がキンゴジ(キングコング対ゴジラ)や平成VSシリーズのゴジラのようなマッチョな方向へデザインをシフトしたのに比べるとあえて反対方向へ持ってきた感じだろう。ただ、あのデザインはデザイン単体としてはとてもか格好良く思ったものの、これが実際に映画内で動くとどうなるか、というとちょっと動いているところが想像できない感じもあった。それは予告編を見ても変わらず、見かけがおどろどろしいだけの木偶の坊なのではないか?という不安も抱いた。今回は日本のゴジラとしては初のフルCGで描かれていて、公開初日に明かされたがモーションキャプチャー狂言師野村萬斎が演じている。そのほとんどが足とクビの動きだろうか。
 今回のゴジラは変態する。最初に姿を表した時は深海魚のラブカを思わせる愛嬌のあるギョロ目にクビが長くエラが目立つ。最初にこのゴジラ(劇中登場するのは第二形態らしい)が登場した時は、ゴジラとは別の新しい怪獣が登場するのかな?と思ったぐらい従来のゴジラのイメージとはかけ離れている。過去のゴジラの子供や子供時代であるミニラやゴジラジュニアといった存在と比べても異形である。ただこのゴジラが動く動く。CGで表現されたそれはちょっと粗っぽくはあるのだが、愛嬌があり、しかし表情豊かなのに何考えてるかわからない狂気さ、音楽とも相まってこの辺はかなり興奮してしまった。このゴジラがやがて立ち上がり二足歩行になって一旦姿を消し、再び現れた時には小さい目に細い腕のあのゴジラとなる。正直ゴジラとしてじゃなく全く新しい怪獣としてこの第二形態のみでも良かったと思うぐらい。
 そして成長したゴジラ(第四形態)は118mとギャレゴジ(108m)を超える歴代最長(今回は痩せている印象もあり、横幅とかを比べると全体的な大きさではギャレゴジやVSシリーズのゴジラに見劣りするかもしれない)。 直立の二足歩行で全体的なフォルムは初代のゴジラを受け継ぎつつ、腕はより細くなっているし、頭部には最初のゴジラデザインである阿部和助の「キノコ雲をイメージした頭部」を連想させるものとなった。一番の特徴は丸く骨がむき出しになったような形状の尾と全身からのぞく赤い体表だろう。「ゴジラVSデストロイア」のバーニングゴジラが皮膚が赤く光ることでメルトダウン寸前の様子を表していたが、今回もゴジラ体内の原子炉に似た内燃機関を冷やすが冷やしきれず赤く燃え立つ血が体表に現れている、という感じか。丸い尻尾はなにか意味があるのかな?と思っていたが、後半でやってくれました。
 ゴジラといえば口から出す放射熱線であるが、今回はかなり凝った様子を見せる。口(大きく開くと下顎が割れる)からまずは炎を出す。この火炎は道路にそって拡がりそれだけでも恐ろしい威力だが、それが収束すると今度はレーザービーム状になりビルを切断する。さらに戦闘機など航空兵器に狙われると背びれから無数のレーザービームを放つ(これはほぼイデオン)。そして最後には尻尾の先からも熱線を放つ。この辺になるともう何でもありでゴジラの生物ぽさはほぼゼロ。「風の谷のナウシカ」に出てくる巨神兵(「巨神兵東京に現わる」もこの監督コンビの作品だ)を想起させる生体兵器という感じ。映像的には興奮したが、これはもうゴジラじゃなくてもいいんじゃないかな?という思いも持った。

 登場人物は「進撃の巨人」から引き続き長谷川博己石原さとみ國村隼他豪華キャスト。ただ登場人物が多すぎて役名を覚えるのが追いつかず、かつ確かに豪華キャストではあるのでもう途中から役名よりも役者名でキャラクターを認識するようにしていた。役名で覚えてたのは長谷川博己の主人公の矢口蘭堂石原さとみのカヨコ・アン・パターソン、平泉成の里見大臣ぐらいかな。後はもう竹野内豊竹野内豊高良健吾高良健吾、とかって感じ。いちいちテロップ付きで出てくるけど、あんまり覚えるのには役に立ってないかな(お前の記憶力が悪いだけだ!という批判は甘んじて受けます)。
 テロップといえば、いちいち人物、場所、兵器などテロップが多すぎる。これはいつでもテロップをつけるいわゆるTVのバラエティ的な手法というよりは庵野秀明監督の過去の作品へのオマージュ的な手法なのだと思うけれど、ちょっとうるさすぎた。かつあんまり効果的ではなかったと思う(元ネタが分かる人には楽しいんだろうけれど)。
 人間側のドラマはほぼ会議室で進行するんだけれど、この辺は2007年の「トランスフォーマー」でのアフガンの村でのレノックスたち米兵とスコルポノックの戦闘を遠いペンタゴンから見る、あのワクワクしたシーンがずっと続いている感じ。
 もちろん過去のすべてのゴジラ映画が参照にされていると思うけれど、個人的に影響が強いのかなあ、と思ったのは1984年の「ゴジラ」と「ゴジラVSビオランテ」の2本だろうか。

 ドラマ部分では過去のゴジラ映画とは異質なぐらい政治家、官僚、自衛官といった官の側の人間しか登場しない。一応科学者も登場するが一貫して官のチームで働いているし、松尾スズキ演じるメディアの人間が登場する以外は市井の人間は登場人物としては登場しない。それがこの映画をストイックなまでにプロフェッショナルが活躍する作品としていて、そこに魅力を感じる人も多いだろう。ただ(先述したとおり良い悪いではないが)僕はそのへんが逆に気になってしまった。最初の「ゴジラ」の監督である本多猪四郎の盟友としても知られ「七人の侍」などで世界に名を馳せた黒澤明監督は生前「ゴジラ」のことを聞かれて「本多監督は真面目だからゴジラが現れてパニックになっても軍人や警官がちゃんと働くけど、オレが撮ってたら官憲は市民を見捨てて真っ先に逃げる」というような事を言っていて(ちょっと出展を失念)、僕もリアル志向のゴジラというのであればそういう方向も描かれるだろう、と濃いおっさんばかりの出演者一覧を観た時には連想したのだが、皆真面目な人間ばかりでこのゴジラという国難に一丸となって立ち向かっていくのである。実際にこんなことが起きた時に人がどういう行動を起こすかは分からない。でもフィクションならばこそ、そんなことやってる場合じゃねえだろ!という事態でも醜く権力争いして欲しいし、市民なんかより自分の命さえ助かれば、という政治家なんかが登場して欲しいと思ったりする(そして散々不快にさせたところで無残な死に方をして観客の溜飲を下げて欲しい)。
 この辺は例えば劇中の政権(大杉漣が総理大臣で柄本明平泉成が閣僚、ちょっとタカ派っぽい女性防衛大臣余貴美子といった面子)を現実の(僕が嫌いな)現政権(安倍自公政権)に重ねて言っているわけではなくて*2、僕の中には根本的に政治家不信、国家不信があるからで、国家というものはゆえあれば国民を裏切るし、軍隊、警察というものは(自国の)市民に銃を向けるだろうと思っている(沖縄の現状を見よう)。なのでこの映画の性善説(誤用)*3、で描かれているような官の描写は気持ち悪いとか思ってしまった。
 もちろん過去のゴジラ映画でも政治家や軍人で悪い人物というのは基本登場しなかったと思うのだが(マッドサイエンティストや企業の社長などでは登場した)、他の作品は子供向けの要素が高く、また主役は民間人が設定されたりすることが多いため、あまり気にならない。だが、この「シン・ゴジラ」は新進気鋭の若い政治家が主役でかつ官しか登場しないため、その辺が気になってしまう。ましてやゴジラという怪獣への対処のプロセスが過去のどの作品よりも詳細に描かれている作品なので余計に気になってしまうのだ。
 緊急事態に対しての政府の行動などは実際にもし似た事態が起きたらどうなるか、というシミュレーションに拠っているのだろうし、理想化されすぎている向きはあるものの特に右よりだとかは思わなかったが、外国の対応の描写はちょっと気になる部分も。別に中国、ロシアが日本を核攻撃したいかのような描写などは必要だっただろうか。現在の日本国内の雰囲気を反映しているといえばそうなのかもしれないがちょっと気になった。アメリカが(アジアの東京だからではなく)NYだったとしても同じ行動を取る、と竹野内豊の口を通して言うのもなんだか微妙。こういった部分はリアル志向だからこそ気になる部分ではある。

この正直予告編から漂うつまらなそうっていう空気感。まさかこんな衝撃的な作品になるとは思わなかった。

 音楽は鷺巣詩郎。最初のゴジラ第二形態上陸なんかは良かったです。ただ劇中では「エヴァンゲリオン」の音楽や伊福部昭の有名な「ゴジラ」テーマをはじめとした東宝怪獣映画の音楽も使われていて、特に伊福部昭の使用は元のテーマをアレンジして使うとかではなく、オリジナルのモノラル音源をそのまま使用しているのでちょっと劇中の他の音楽と比べて浮く印象。後半は特に頻繁に使われエンドクレジットでも伊福部昭の楽曲のみが流れる。この「シン・ゴジラ」は1954年の「ゴジラ」の続編ではない全く一からの作品だし、伊福部昭のテーマを使用する必要はないか、使ってもここぞという一場面のみにしたほうが良かったのではないかと思う。ただ最初は伊福部昭の楽曲を鷺巣詩郎がステレオに新録もしたらしいのだが、最終的にモノラル音源を使うと庵野秀明が決めたらしいので、その辺は意図的なものらしい。個人的にはあまり効果的には思えなかったけれど。

シン・ゴジラ音楽集

シン・ゴジラ音楽集

 特撮部分はゴジラが全身武器状態でやり過ぎ、ってのと第四形態ゴジラがもっと動いてくれたらなあ、とは思うけど現状最高のものだったと思う。無人在来線爆弾(無人の新幹線や電車に爆弾乗っけて線路上にとどまるゴジラの足に特攻させる)とか、その後の放水車をゴジラの口元に近づけて血液凝固剤を経口摂取させるとか絵的にも楽しい描写がたくさんあった。

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監督(樋口真嗣)の前作。昨年のワースト。後編は未だ見てない。

 ゴジラシリーズとしての前作レジェンダリー・ピクチャーズギャレス・エドワーズ版。通称「ギャレゴジ」。

1954年の初代「ゴジラ」。全てはここから始まった。

 こちらも日本発、「トランスフォーマー」実写版のスコルポノックの襲撃シーンを「シン・ゴジラ」を見ながら連想した。 実は全編にわたって連想したのはこちらの最終部。山一抗争をモデルにした関西の暴力団の抗争をバックに、東京で傭兵が大規模テロを起こす。緊急事態での政府の行動などもかなりシミュレートされている。劇中の政権のモデルは現総理安倍晋三父親安倍晋太郎(実際には彼は総理にはなっていない)だが、政府や自衛隊の正の描写も負の描写もきちんと描いていることで個人的には緊急時の政府の行動を描いた作品としてはこちらのほうに軍配が上がる。
ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

 ラスト、間一髪でゴジラの停止に成功。核攻撃も回避し、またゴジラを原因とする放射能半減期も判明することで復興への希望を残して物語は終わる。しかし究極生物ゴジラはそのままそこにいるし、もしかしたらその所有権を巡って一悶着あるかもしれない。そもそもこれでゴジラが永遠に死んだわけではないのだ。そのゴジラは尻尾の先が映し出される。そこには尻尾の先を構成していたまるで人のようなシルエットが…
 多分この「シン・ゴジラ」から直接続く続編はないんじゃないかなって気はするが、今後作られる新しいゴジラには確実に影響をあたえるだろう。ただ、これがスタンダードになっちゃうとそれはそれで違う気がする。
 胸を張って好きだとはいえないけれど、何やら凄い作品だということは確かです。これは是非スクリーンでの鑑賞を!

*1:厳密には「ゴジラVSメカゴジラ」が最終作になる予定だったのだが、ハリウッド板の製作延期によってシリーズは延長し「ゴジラVSスペースゴジラ」と「ゴジラVSデストロイア」の2本が作られ、「VSデストロイア」がVSシリーズ最終作となった

*2:ただこの作品を東日本大震災時に重ねるならモデルは民主党(現・民進党)の菅政権ということになる

*3:人は基本的に善良な行動を取る、という意味で使う「性善説」は誤用。楽天主義の方が正しいか

剣と魔法と諸言語と ウォークラフト

 皆さん「ポケモンGO」遊んでますか?僕もすっかりハマってスマホ片手に外を彷徨いてますが、このゲーム自分の部屋にいるときはまったく遊べない代物なので(周囲の環境によるけれど自分の場合はまったくポケモンが出現せず)、ある意味外にいる時だけ遊ぶゲームと割り切って付き合えるのは良いと思います。ちなみにポケモンはその昔学生時代にレンタルビデオ店でバイトしていた時にアニメの「ポケットモンスター」で画面の光の点滅の激しさで視聴者が体調不良を訴える、という事件の余波で店にあるポケモンのビデオを全部メーカーに一旦返却する作業に従事して、それで興味を持ってアニメを見たら結構ハマって初期の方は見てました。ゲームの方は10年ぐらい前に最初の緑をプレイしたけど途中でやめちゃったなあ。まあこういうそれまでポケモンに特に興味がなかった人にまでやってみようと思わせただけでも凄いゲームだとは思います。
 本来モンスターである敵を集めるゲームというと自分の場合「女神転生」シリーズの仲魔なので是非メガテンバージョンも出してほしいなあと思ったり。ARの都会に潜むって設定だとポケモンより悪魔のほうが合ってる気もするんですよね。
 で、こんなゲームの話から始めたのは、今回の映画がゲームの映画化作品だから。ダンカン・ジョーンズ監督作品「ウォークラフト」を鑑賞。

物語

 オークの世界は滅びかけており、オークたちは人間やエルフたちの住む世界アゼロスへと異次元の扉「ポータル」を使って進出をはじめていた。オークたちは魔導師グルダンに率いられアゼロスを襲撃するが、ある部族の長デュロタンはそんなグルダンの姿勢に疑問を抱く。
 一方人間たちも手をこまねいていたわけではなく、王の義理の兄で一番の戦士でもあるローサーは守護者であるメディブ、落ちこぼれ魔法使いであるカドガーとともに対策を練る。オークとの戦闘で人間とオークのハーフであるガローナを捕虜としたことで両軍に対話の道が開かれたかに見えたが…

 原作はパソコンのゲームでもう20年ぐらいの歴史はあるそうだが、僕は全くの未経験。ただ、映画を見終わった後で軽く調べたところによると大体のファンタジーゲームでは敵となることが多いオークをプレイヤーキャラとして選べることが珍しく、それも「ウィザードリーⅣ」みたいな敵の立場でというよりはそれぞれに戦うべき大義がある、みたいな設定らしい。オークのデザインもブタを思わせる「指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)」系ではなくどちらかと言えばオーガと言ったほうがいいようなデザイン。世界設定や登場人物、物語なんかもかなりゲームの要素は生かされているみたい。
 監督のダンカン・ジョーンズは今年亡くなったデヴィッド・ボウイの息子で「月に囚われた男」「ミッション:8ミニッツ」に続く三作目。1,2作目がどちらかと言えば限られたシチュエーションで展開する作品だったのに比べるとかなり趣も異なり作品規模も大きくなった。元々映画化の企画自体はかなり前から進んでいてダンカン・ジョーンズは後から参加した形らしいが、元々の脚本ではオークが単なる倒すべき敵でしかなかったのを、もう一人の主役として共感できるように描いたのはジョーンズの功績だそうだ。

 主人公はオーク側のデュロタン、人間側のローサーとなる。オークのデザインは一般のオークと言って思い浮かべるデザインよりももっと大柄に筋肉質に描かれており、基本的にはCGだろう。様々な部族に分かれており、おそらくモデルとしてはインディアン=ネイティブ・アメリカンだと思う。肌の色が二種類に分かれるが緑の肌のオークは元々そういう種族なのか、劇中で出てくる闇の魔力によってそういう色になったのかちょっと分からない感じ。主人公デュロタンはそんなオークの中でも(アゼロスの人間が見て)かなり優しそうなイメージでデザインされていて、他のオーク(特に緑色の)と一線を画す。「スコーピオン・キング」の時のロック様をベースに筋肉や牙などを盛っていた感じか。ひと目で悪いやつじゃないな、と分かるデザインではあるのだが、もっと他のオーク同様外見は人間が醜悪に見える感じに、でもその中身は人間とも分かりあえる、とかでも良かったのではないのか、という気もしないでもない。ホード(オークの軍団)の指導者グルダンはフードを被り魔導師みたいなのに、最後は肉弾バトルだったりするのは結構好き。てかハルクとかドゥームズデイみたいな感じすらする。
 人間側は戦士ローサーを主人公とするが、オーク側に比べるとあんまり個性は強くない。ローサーの妹で王妃であるタリアをルース・ネッガが演じていて、この人はTVドラマ「エージェント・オブ・シールド」なんかに出てますね。エチオピア系のアイルランド人ということで兄であるローサー役のトラヴィス・フィメルとは明らかに人種違うじゃん!とか思ったりもするのだが、あんまりそのへんは気にならずドミニク・クーパー(この人もあんまり人種を問わずいろいろ演じる人だ)の国王と並んで個性的な夫婦。ドミニク・クーパーはまた王様を演じているが今回は良い人。
 ベン・フォスターのメディヴやベン・シュネッツアーのカドガーがもう少し魅力的だと良かったのだが、ちょっとキャラは弱かったかな。

 面白かったのは劇中での言語表現。もちろん使用されているのは英語なのだが、例えば「指輪物語ロード・オブ・ザ・リング)」はそもそも英語による神話創造がトールキンの執筆目的でもあったりするので使われているのが英語であるのは当然なのだが、他のファンタジーではそうは行かない。中世ヨーロッパをモデルとしていてもそれぞれ言葉は異なるはず。
 本作ではオーク同士や、アゼロスの者同士で会話する場合は英語が使われるが、オークと人間が会話をする場合は通訳を介し、それぞれ別の言語を使う。つまり「本来はそれぞれ異なる言語を使っているけれど、それでは色々面倒だし物語進行に支障をきたすから、便宜上英語で喋ってもらってますよ」という体裁なのだ。人間が英語を使い、それを通訳がオークの言葉に治すシーンが多いけれど、人間の捕虜になったオークが通訳となるガローナと英語で会話をして、その背景でローサーが何やら違う言語で喋っているシーンも有るので決して人間も英語を使っているわけではない。あくまで物語の進行上、主となる視点のものに便宜上英語で喋らせているだけなのだ。言ってみればこれは英語吹替版みたいなものと言える。オークの部族名も英語のままだが、これも本来はオークの言葉を英語訳したものという感じだろう。

 セットや世界観はやはりゲームが下地にあるな、という感じはして、「ロード・オブ・ザ・リング」の重厚さにはちょっと及ばない(もちろん「LOTR」以降のファンタジー作品として影響は受けているだろう)。ただ、独自の描写も多く、予告編だけ観た時の印象からは異なり面白かった。
 ただこの作品続編製作が前提にあるのか、物語としてはかなり中途半端に終わる。敵の首領であるグルダンすら倒れることはなく退却する終わり方はちょっとカタルシスに欠ける。あからさまに続編への含みを残す要素も多い。こういうシリーズ化前提の作品作りは最近の傾向ではあるのだが、この作品の場合米国内ではあんまり興行成績も評価も良くなかったそうなので続編が制作されるかも分からず(ただ中国ではヒットしたそう)、もし続編が作られなければ宙ぶらりん出終わってしまう事になるなあ。
 映画はデュロタンの息子である赤ん坊が人間に拾われるところで終わる。この描写は旧約聖書のモーゼを連想させるが、彼がオークと人間の架け橋になるのか、あるいは人間を知ってなお人間を敵とする存在になるのか(彼は最初にアゼロスで生まれたオークであり、その際にグルダンの魔力を受けている)それも続編次第である。

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スーパーヒーローの肥溜め(褒めてる) デッドプール

YO It's me It's me It's D・D・P
オレだよ、オレDDPだ!
 というわけで、我らがクソ無責任ヒーローDDPことダイアモンド・ダラス・ペイジ……じゃなかったデッドプールの登場だ!最初の映画登場から7年。そのキャラクター同様死んでも生きかえるゾンビのような、否、不死身のヒーロー映画がついに登場(と言いつつすでに公開はほぼ終わっているいつものパターンなのはご了承ください)。アメコミヒーローを肥溜めにぶち込んで熟成させたような(褒め言葉)アンチ・ヒーロー大活躍「デッドプール」を鑑賞。

物語

 かつてウェイド・ウィルソンは特殊部隊にいた。そして改造され口を縫われ真っ二つにされた…が生きていた。でもとりあえずそのことは忘れてくれ。それとは特に関係なしに、ウィド・ウィルソンは赤いコスチュームに赤いマスクを被りデッドプールを名乗って過激な復讐稼業に精を出していた。特殊部隊で活躍したウィド・ウィルソンは2年前、最愛の女性ヴァネッサと出会い激しく愛しあった。婚約もした幸せ絶頂のウェイドに襲いかかったのが全身ガンに侵されているという宣告。落ち込むウィエドに目をつけたのがソフビ人形のような顔をした胡散臭い男で彼によるとある人体実験に参加すれば末期ガンも完治するという。ヴァネッサに黙ってその実験に参加することを決めたウェイド。しかしそこは粗悪な実験施設で実は人為的なミュータントを作り出すためのものだった。まるで拷問のような実験を経て不死身の肉体を手に入れるウェイド。しかし彼の顔は醜いハンバーガーヘッドとなってしまった。施設の責任者であるクソ野郎エイジャックスは彼をいたぶり続け、ウィエドはついに反旗を翻す。脱出したウェイドはマスクを被り自らをデッドプールと名乗りエイジャックスへの復讐ときちんとした顔を取り返すためちまちまとエイジャックス周りの人間を血祭りにあげるのだった。時々ヴァネッサのストーカーもしながら…

 一応、20世紀FOXの「X-MENユニバース」に所属する一本。本作にもコロッサスと新人のX-MENが登場します。ただ劇中でデッドプール本人も言っている通り(プロフェッサーXはパトリック・スチュアートジェームズ・マカヴォイ?)、どの時間軸で?と言うのは明言されておらず、その辺はあんまり気にしない方が楽しめます(元々矛盾上等のシリーズだ)。コロッサスのキャラもこれまでの映画とは結構違うしな。
 またデッドプール自体もこれが映画初登場ではなく、スピンオフの「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」のラスボスとして登場済み。あの作品は時系列的には2000年の第1作「X-メン」の直前につながる前日譚。ただ「X-MEN フューチャー&パスト」で70年代を基点に時系列が分岐したため、今回の新作はあえて言うならその分岐した時間軸の先にある現代が舞台といったところか。待機作の「X-MEN:アポカリプス」から本作につながるのかは不明。劇中で「X-MEN ZERO」で出てきたハゲ、口縫い、手からアダマンチウムの爪のデッドプールのフィギュアをウィエド・ウィルソンが持っていたりする(つまり自分のフィギュアを自分で持っている)ので単にパラレルワールドと思ってもらってもいいかも。
 まあそんなことはあんまり関係なく、とりあえず何の説明もなくコロッサスなどミュータントが出てくる世界だと思っていればよいのです。

 主演のライアン・レイノルズはこの映画がもう5本目ぐらいのアメコミ映画で主人公としては3本目、にしてようやく当たり役になった、というところだろうか。ご存知のように「ZERO」でもデッドプールを演じ、その後「グリーンランタン」でタイトルロールを。「ZERO」のデッドプールは全然喋らず、せっかくライアン・レイノルズを起用した意味が無い!と思ったりしたのだが、本作はやっとそのライアン・レイノルズの持ち味も活かした作品に。ライアン・レイノルズ本人が製作に関わり作り上げた。映画でも冒頭にあるハイウェイの上から車に飛び移って中の人間を軽口叩きながら殺すアクションシーンはCGで作られたのが、先に動画サイトなどで公開され、それが評判が良かったので正式に製作された模様。このシーンもきちんと実写として作りなおされている。
 さて、そもそもデッドプールとはなんぞや?日本でもこの映画やアニメ「ディスク・ウォーズ・アベンジャーズ」などでおなじみとなったが、デビューは割合最近で変態仮面より約一年早い1991年(それでももう25年以上)。デザイン(DCのデスストロークのアレンジ)から性格(喋りながら戦う傭兵)まで一発屋前提の予定だったためかかなり適当な存在だったがその適当さが逆に受けて今や大人気のアンチ・ヒーローである。ウルヴァリン同様カナダの超人兵士製造計画で不死身の肉体を与えられるもそのガン細胞も元気に増殖して彼の顔を醜くしている。不死身度も刺されたり折られたりしても直ぐ治るし、腕ぐらいならちぎれてもまた生えてくる。
 彼の一番の特徴は第4の壁を超えること。いわゆる劇中の登場人物に対してだけでなく観客にも語り語りかけてくることだ。ただ、これ自体はそんなに珍しいことではなく、映画の冒頭で主人公(またはそれに準じる人物)がナレーションとして観客に語りかけるとかはよくあること(映画「スパイダーマン」がそうだ)。彼の場合はそれをはるかに超えて、きちんと自分がコミックスの登場人物であることを認識し、なんなら漫画の制作者(マーベルの編集者など)に直談判してみせたりする。日本の漫画でもギャグ漫画なら珍しくはないが、これが他のシリアスなマーベルユニバースも含んだ上で行われる。デッドプールが読者に何か言っているのを他のキャラクターが気付いて、でもデッドプールがひとりごと言ってる、と思ったりする。
 この映画でも先の映画「X-MEN」シリーズの時系列についてだとか、X-MENがコロッサスと新人のネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド(クソかっけえ名前。以後ネガソニ子)しか出てこないのは予算のせいか、とか言ってみたりする。ただ、その方面ではちょっとまだ真面目すぎるというか、映画の常識の範囲内。続編ではもっとはっちゃけてくれるとうれしいな。
 常識の範囲内といえば、構成をいじくってなんとか飽きさせないように工夫してはあるものの、やはりいわゆるオリジン部分がちょっとたるい。モリーナ・バッカリン演じるヴァネッサはスーパーヒロインでないアメコミ映画のキャラクターとしては多分これまででも最も魅力的なキャラの一人だし、素顔のライアン・レイノルズも格好いいのだが、どうにもたるいな、という印象になってしまう。逆にそこを乗り越えてマスクをかぶった、あるいは醜くなったデッドプールになると一気にテンポが良くなるのでちょっとの我慢だ。

 他の登場キャラクターはX-MENからコロッサス。この映画では唯一のCGキャラクターでモーション・キャプチャーとかでもないみたい。よって変身前の姿は登場せず、常に(シリアル食べるときでも)あの鋼の体。今までの映画シリーズではまだ生徒としての扱いが多かったのでそんなに頼れる兄キ感は感じなかったが、本作では徹頭徹尾マッチョで、でも生真面目で頑固な兄貴ぶりを発揮しています。CGだけど。
 本作はメインヒロインのヴァネッサはじめ魅力的なヒロインが勢揃い。ネガソニ子はブリアナ・ヒルデブランドという丸坊主にゴスメイクの人が演じていて、そのパンキッシュな悪ガキ態度が素敵。キャラクターはこの映画で初めて聞いたのだけど最近のデビューなのかしら?敵にもエンジェル・ダスト*1というパワー自慢の女ミュータントが登場。演じるジーナ・カラーノは「エージェント・マロリー」の主人公ですね。他にもデッドプールの同居人である盲目の黒人老婆ブラインド・アルとかも印象強烈。全体的に女性が強い映画、というか敵ボス、フランシス(エイジャックス)は確かにパワーこそ強力だけど目立たないし、デッドプールの仲間であるウィーゼル(イタチ)ものらりくらりするとした性格、そしてデッドプール自体が(デッドプールになってからは)案外女々しい性格なので、この映画総じて男性キャラが女々しく、女性キャラが雄々しい映画だったりします。繰り返すが男らしさの塊のようなコロッサス兄貴はCG。

 R指定になっただけあって、この手の映画ではまったく容赦しない人体破壊描写もあるし、セリフもかなりお下劣。だけど不快な感じはまったくしないです。続編では是非この方向性のまま、更に(先程述べた第4の壁を超える描写などで)ハチャメチャなものにして欲しい。
 アメコミ映画お約束のエンドロール後のお楽しみではデッドプール自ら続編について語ってくれるよ!次はケーブル(サイクロップスとジーン・グレイのクローンの間に出来た子供で未来で育ったため親よりもおっさんな人)が出るらしいがあんまり過剰な期待すんなよ!
That's not bad thing,That's a good thing!
悪いことじゃない、それはいいことさ!


セルフ・ハイ・ハイブ!

特に関係ないんだけど、デッドプールとDDP(ダイアモンド・ダラス・ペイジ)ってなんとなく似てるなあ、と思ったのでつい……

デッドプールの兵法入門 (ShoPro Books)

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Superstar Series: Diamond Dallas Page [VHS] [Import]

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ウルヴァリン:X-MEN ZERO - 小覇王の徒然なるままにぶれぶれ!!!

無口なオレちゃんがラスボスで出てくる(一応の)前作?(旧ブログです)

*1:日本語だと単にエンジェルになっててX-MENではエンジェルという名のミュータントが多数登場するので紛らわしい

悲しき対決 貞子vs伽椰子

 6月中にまた更新するという公約を見事に守れなかったのですが、現在プレイ中の「ドラゴンクエスト6」が程よく行き詰まったのでブログに精を出します。「ドラクエ6」はこれが初プレイなので知らなかったけど「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド」は「ドラクエ6」の前日譚(外伝)だったのね!昔ゲームボーイカラー版に熱中してたよ!
 さて、今回は和製ホラー映画の金字塔「リング」の貞子と「呪怨」の伽椰子が戦うというクロスオーバーホラー「貞子vs伽椰子」を鑑賞。他の作品をさておいてこちらの感想を書くというのはそうです、あんまり楽しめませんでした。負の感情が大きい時のほうがスムーズに書けるのは悲しいところ。とはいえ世間的にはそれなりに評判もよいのであくまで僕の意見ということで何かの参考になれば。

物語

 女子大生ユリは友達の夏美から両親の結婚式のビデオをDVDに焼いてほしいと頼まれる。そのためにリサイクルショップを訪れた二人は一番安いVHSデッキを購入。そのデッキの中にはすでにテープが挿入されていて、夏美はそこに映されていた映像を見てしまう。直後にかかってくる謎の電話。これは都市伝説の「呪いのビデオ」に違いない!このままでは夏美の命はあと2日。二人は都市伝説を大学で研究している森繁に相談、森繁もそのビデオを見てこれは本物と判断。森繁の知り合いの霊能力者に診てもらうことに。
 一方同じ頃新居に越してきた女子高生鈴花は向かいの今は立入禁止となっている一軒家が気になっていた。小学生が行方不明になっていたが鈴花はこの家の前でその小学生たちを目撃していたのだ。この家が関係していると思った鈴花は家に足を踏み入れてしまう。
 夏美は霊能力者に見てもらうがその呪いの力は強く霊能力者たちを殺してしまう。ユリは夏美から呪いを引き継ぐべく同じく呪いのビデオを見る。そこに現れたのが別の霊能力者常盤経蔵。彼は呪いのビデオの呪いの主、貞子と忌まわしき一軒家の呪いの主、伽椰子の2つの呪いを同時にその一身に宿らせることで呪いの対消滅という驚くべ戦法を立てる。ユリと鈴花が経蔵の手引のもと出会うことに。
「化け物には化け物をぶつけんだよ!」

 現代日本を代表する怪談キャラクター。今は少し落ち着いたが一時は世界的にブームにもなったJホラーの立役者となった2シリーズが共演。それこそ「東海道四谷怪談」のお岩さんぐらいまでは容易に遡れる*1黒髪に白い服の伝統的な日本幽霊を引き継ぎつつ、きちんと現代の要素を足しているところがこの2つのシリーズの特色でもあるだろう。
 僕は両シリーズとも一応それなりには見ていて、「リング」は最初の映画版と続編の「らせん」「リング2」、ハリウッド版のリメイクである「ザ・リング」と「ザ・リング2」はチェック済み。ほとんど記憶には」ないけれどオリジナルビデオやTVドラマの「リング」も少し見ていたと思う。鈴木光司の原作は読んでいない*2。ただクライマックスでTVから出てくる貞子、という表現は映画オリジナルだそうで「リング」が世界的に評判となったのはこの映画版あればこそだと思う。現にハリウッド版も鈴木光司の原作を改めて映画化、ではなくあくまで映画「リング」のハリウッドリメイクである。
呪怨」の方は最初のオリジナルビデオ2作、映画版2作、そしてハリウッドリメイク作2本は鑑賞済み。特にこちらの方は大石圭のノベライズも読んでいたりしてかなりハマった覚えがある。僕はどちらかと言えば「呪怨」の方が好きである。
 両シリーズとも、最近の作品はチェックしてはいないが初期作はだいたい見ているという感じだろうか。原作小説そのものよりも映像化によって世界にその存在が認識されていくさまは「ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」と同様であり、その辺でもまさに現代を代表するホラーキャラクターと言えるだろう。
 監督は白石晃士これまでは主にフェイクドキュメンタリーの形式でホラー映画を撮ってきた人だ。僕はこの人の作品はこれが初となるが、なかなか熱狂的なファンがいる印象で、監督自身の露出も多いみたい。本作では自分から名乗りを上げて監督をし(元々は2015年のエイプリルフール企画だったそうな)脚本も手がけている。だからまあ、本作への批判はほぼ白石監督に向けて良いだろう。
 こんな書き方をしたとおり、僕は今回の「貞子vs伽椰子」全然ノレなかった。物語の流れはともかく登場人物の造形と会話が薄っぺらすぎ、互いの設定も元々の設定をきちんと活かしているというよりはこの作品のために安易な方安易な方に改変しているように思えた。もちろん僕はこの両シリーズを全てチェックしているわけではなく、そもそもこの作品はおそらく両シリーズのパラレルワールド的な扱いになるのだろうし、独自の解釈があっても良いのだが、なんだか釈然としない。例えば分かりやすいところでは呪いのビデオを見て死ぬまでの日数が七日間から二日間に短縮。またその呪いのビデオ自体が最初の「リング」の時に作られた映像に比べるとかなりお粗末になってないか(廃墟と思われる建物の部屋が映って中央の扉から貞子らしい人物が姿を表すというだけ)?あと髪の毛を触手のように使うのはどちらかと言えば伽椰子の領分ではなかったかな?
 伽椰子の方は伽椰子の方で俊雄くんがアグレッシブすぎる。俊雄くんはあくまであの家の水先案内人とでもいう役割で俊雄くん自ら手を下す役割ではなかった気がする。それがこの作品ではかなり直接的に俊雄くんが手を下す。
 後は両者の違いって言うことでいうとやはり伽椰子は貞子と違って藤貴子という女優に負うところが大きいのではないかと思う。フレディがロバート・イングランドでなきゃ魅力が半減するように。

 登場人物の会話が薄っぺらいと書いたがそれは主役が一定しないところもあるだろう。山本美月のユリと玉城ティナの鈴花は良かったと思うのだが、それ以外のキャラクターがきつい(常磐経蔵はまた別)。例えば甲本雅裕が演じる森繁が都市伝説としての「呪いのビデオ」に熱中し、探偵役となって物語を主導するのかとおもいきやあっけなく死ぬ(貞子の呪いを受けたものは勝手に死ぬことも許されない、とか言っていた割に彼はあっさり一日目で死んでしまう。この辺りも設定が一貫してなくてイラッとするところ)。
 玉城ティナはお人形さん的な美しさははあったけれど、こういうホラーで被害に合う側としてはちょっとその美しさが逆に邪魔になっていたかな、という感じ。それでもそんなに台詞も多くなくそこにいるだけで魅力的な感じではある。
 山本美月は想像した以上によく今風でありながら芯の強い女子大生をうまく演じていたと思う。後半のアクの強い常磐経蔵と対等に立ち向かえていた。

 この作品で一番むかつくのは霊能力者法柳だ。堂免一るこ、という人が演じるこの役はかなり不快。口調が完全に命令口調。これが知りあいである森繁に対してだけなら別にいいのだが、初対面で客でもあるユリや夏美に対しても命令口調なのでこの上なく不快。いざ、除霊の時になったら口調が変わるとかならまだいいのだが、画一的に同じ口調でさっさと死なねーかな、と思うこと間違いない(案の定死ぬ)。この霊能力者は高天原が云々と神道ぽいことを口に出したと思ったら次は真言=タントラを唱える節操のなさで普通に人格がやばいだけでなく霊能力者としても無能なんじゃねえの?と思ってしまう。ホラー映画では大体観客に不快感を味あわせた人物は無残な死に方をして観客の溜飲を下げさせるのが定番だが、その意味では正しい最後を迎える。がどうも普通に格好いいキャラとして創造されたような気もするんだよな……全体的に悪い意味での漫画っぽい単純な人物造形が多く、そのせいで作品そのものが薄っぺらくなっています。
 中盤から物語を主導し、解決に導くのが安藤政信演じる常磐経蔵なのだが、これはやはり漫画的な造形の人物ながらそれがうまい方向へ作用しているキャラクター。盲目で少女の相棒珠緒を連れた無頼の霊能力者。探偵役でヒーローの役柄だが、彼はかなり唐突に登場する。一応法柳の手に負えないから彼にも連絡しておいた」、という体で登場するが、それまでに彼の説明がない。実質主役なのに登場が遅いということもあるがそのまるで誰もが知っているキャラクターかのように登場する(まるでホームズや明智小五郎が中盤に事件が行き詰まってからいきなり登場しても問題ないように)ので、僕はてっきりこの常磐経蔵と珠緒の二人が僕が見ていない「リング」呪怨」どちらかのシリーズ作品か、あるいは白石監督の過去作ですでに登場済みのキャラクターなのかと思ったぐらい。ところがこれがまったくの初登場らしい。これなら例えば映画の冒頭に本編とは直接関係ない幽霊事件を解決する常磐経蔵みたいな描写を入れて最初に主人公だと示したほうが良かったと思う。
 盲目の霊感少女珠緒も法柳同様口調が誰にでもタメ口、というか上からの不遜な口調で、相棒である経蔵との間では、それはむしろ信頼の絆を伺わせて全然良いのだが、ユリたちに対しては、もうちょっとやわらかい口調にできなかったものか。常磐経蔵も基本の口調は誰にでも乱暴なタメ口なんだけど、そこは安藤政信がきちんとセリフを咀嚼しているというか、人によっての微妙な機微を感じ分け、相手の様子を考慮して不快にならないようにしているのに対して珠緒はただ誰にでもぶっきらぼうなだけでセリフを自分の物にしていない感じが強い。
 モンスター映画としてみた場合、ラストのバトルと融合は面白かったが、それほど両者の個性が発揮されていたとは思えない。
 結局ホラーとしてもモンスター映画としても中途半端になっているように思える。「フレディVSジェイソン」を反面教師にしたと言っているがあの作品がきちんと両者の個性、フレディの邪悪さ、ジェイソンの悲劇性を再表現した上で互いの設定をすりあわせているのに対して、本作の貞子と伽椰子はほぼ出てくるだけ。過去のシリーズで散々描写されてきたからかもしれないが、どうしてこの二人の女性が怨霊となったかがまったく無視されているのは悲しい。呪いのビデオやあの家についてユリや鈴花が調べていってただ怖がるのではなく多少の共感を覚えるような過去の作品にあった要素が、綺麗に消えている。「外なる恐怖と内なる恐怖」というのはスティーブン・キングの言葉で超常現象を発端とする恐怖「外なる恐怖」とサイコホラーなど人間の内面を根源とする「内なる恐怖」の両輪があって、この作品で言えば外なる恐怖は描けても内なる恐怖は皆無。もちろん実際にあんな状況に放り込まれればそれは恐怖だろうけど、映画として観客が味わう恐怖感とはちょっと違う。効果音などでビクッとする瞬間はたくさんあるが、それと恐怖はまた別だと思う。

 急いで書いておくと、超常現象ホラー系の作品の時には毎回言っている通り僕は「フィクションの素材としては大好きだけれど、現実のものとしては超常現象の類を一切信じていない」人間なので、そういう人間の感想だし、実際僕がホラー映画を見て感じる恐怖は決して一般的ではないと思うので気になる人は各自確認を、ということになる。

貞子VS伽椰子 (小学館ジュニア文庫)

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聖飢魔IIが主題歌!楽しい曲だったけどホラー映画のクレジットでかかるのにふさわしかったかはちょっと疑問。
リング コンプリートBOX [DVD]

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フレディVSジェイソン」は偉大だ。

*1:ヘタすれば黄泉比良坂の伊邪那美命まで辿れる?

*2:関係ないが鈴木光司は昔NHKスティーブン・キングのドキュメンタリーを放送した時にスタジオ出演していて、学校が嫌いだった、というキングに「ボクはわからないな〜学校大好きでしょうがなかった」みたいなことを言っていた時に、この人とは友達になれないな、と思った