人民VSヴァンパイア リンカーン/秘密の書
人民の人民による人民のための政治
government of the people, by the people, for the people
この言葉は民主主義のあり方を端的に分かりやすく示したものとして有名である。他にも「朕は国家なり(L'État, c'est moi)」というルイ14世の絶対王政を示す言葉や「君主は国家第一の僕(Ich bin der erste Diener meines Staates.)」というフリードリヒ大王の啓蒙専制君主のあり方を示した言葉とともに簡潔に政治形態を表現したものである*1。この「人民の〜」という言葉には元ネタがありたどると聖書に行き着くらしいが最も有名なのはやはり第16代アメリカ合衆国大統領であるエイブラハム・リンカーンがゲティスバーグで1863年11月19日に行った通称ゲティスバーグ演説の一節としてだろう。リンカーン大統領といえば南北戦争中のアメリカ大統領として今でも強い人気を誇り日本でも知名度の高い大統領である。開拓農民の家に生まれ弁護士から政治家になりやがて大統領に登りつめたリンカーンはある意味典型的なアメリカンドリームの体現者であるのだろう。暗殺という形で人生の幕を閉じたのも劇的である。
このゲティスバーグ演説、実際はとても短い演説であるし、この「人民の〜」部分もマイクなどなかった時代、現場では特に盛り上がらず、後に新聞記事でピックアップされて注目を浴びたそうである。ところでここで言う「人民」とはおかしくないか?南軍にしても同じ人民ではないか?と思ったのかどうかわからないが、この南北戦争が実は人類対吸血鬼の代理戦争であり、人類側である北軍の司令官リンカーン大統領は実はヴァンパイアハンターだったのだ!という発想の作品が今回観た映画である。「リンカーン/秘密の書」を鑑賞。
物語
開拓農民の家に生まれたエイブラハムは黒人の少年ウィルを助けようとして地元の名士ジャック・バーツに逆らう。その夜家にバーツが侵入し母親に何かをする。次の日母親は死亡。成長したエイブラハムは母親の敵であるバーツを見つけ襲撃するが殺したはずのバーツはふたたび立ち上がった。絶対絶命の危機を救ったのはヘンリーという青年だった。彼はバーツはヴァンパイアであり、この合衆国にはたくさんのヴァンパイアが跳梁跋扈し権力を握る時を狙っているという。ヘンリーのもとでヴァンパイアハンターとして修行をしたエイブラハムはスプリングフィールドにおいて昼は弁護士の勉強をしながら夜はヴァンパイアハンターとして活躍するのだった。やがて彼にはメアリーという恋人もでき、エイブラハムはもっと長期的な見方から政治家を志すようになる・・・
原作はジェーン・オースティンの「高慢と偏見」にゾンビ要素を足して文章の9割を原典を用いながらマッシュアップした「高慢と偏見とゾンビ」を発表したセス・グレアム=スミス。この映画化にも脚本として関わっている。ある意味でパロディ的な描写を得意とする作家なのだろうか。綿密に描写された歴史的背景を元に大胆にフィクションの出来事を配置するというものではキム・ニューマンの「ドラキュラ紀元」のシリーズなんかを思い出す。後はやはりアラン・ムーアの「リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン」あたりか。ともかく、この作品も映画を観るだけでも単にリンカーンは若い頃に吸血鬼退治やってました、というだけでなく、現実に起こった出来事はそのまま事実として認定しその上でうまく矛盾しないように裏でこんなコトしてたよ、という描写をしている。おそらく原作はもっと濃いアメリカ近代史の裏側みたいな描写も多いのであろう(例によって読んでない)。
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この作品は大きく前後編に分かれていて、前半は青年リンカーンが親の敵であるヴァンパイア、バーツへの復讐心を糧にしてヴァンパイアハンターとして活躍するがやがて、一個人でヴァンパイアを退治していてもしょうがない、と政治の世界に踏み出す青年時代。そして大統領になって南北戦争を指揮する後半。この世界の中では奴隷制度は単なる南部の労働力としてだけでなく、殺しても構わない(法律に抵触しない)、ヴァンパイアの貴重な食料供給の制度として成り立っているのだな。リンカーンは当初、地道に一人ひとりヴァンパイア(大体地域の名士に偽装している)を血祭りにあげていくのだが小さい頃の親友である黒人青年ウィルや妻となるメアリーとの出会いで「こんなちまちま殺ったところで埒が明かねえ」と政治の世界に突入する。面白いのは吸血鬼退治の師匠に当たるヘンリーは当初リンカーンに「復讐心を捨てろ」みたいなことを言うのだが、いざリンカーンが復讐心を捨ててそこからさらなる高みを目指すと、自分でコントロールできなくなるのが嫌なのか、反発するんだよね。以前「ダークナイト ライジング」の時にも書いたけど本当に犯罪を撲滅したかったり、化物を全滅させたりしたければ夜な夜なヒーローとして頑張るより、警察に入って出世するとか政治の世界に入って世の中の構造自体を変革するとかのほうが効率がいい。この映画のリンカーンは実際その道に進んだわけだが、最初に修羅の道に引き入れたヘンリーは口ではなんだかんだ言いながら実は彼自身が復讐から一歩も踏み出していないことが判明する。実は彼自身がヴァンパイアであり・・・。このヘンリーを「キャプテン・アメリカ」「デビルズ・ダブル」のドミニク・クーパーが演じている。はっきり言ってリンカーンその人より目立っていて格好いいが、キャラクターとしてはちょっと造形が足りないのが残念(それはこの映画の登場人物全員に言えるのだが)。
主役のリンカーンは誰が演じているのか事前には分からなかったのだが、僕が見ていてずっと「リーアム・ニーソン(の若いころ風)に似てるな」という事だった。演じているのはベンジャミン・ウォーカーという人で僕なんかはてっきりリーアム・ニーソンの息子か何かかと疑ったぐらいなのだが、どうやら関係は無さそう。ただ、「愛についてのキンゼイ・レポート」で実際リーアム・ニーソンの若いころを演じているので当たらずとも遠からず。またリンカーン大統領自身も背が高いのだが、(193cmで歴代大統領中一位)このベンジャミン・ウォーカーもリーアム・ニーソンもでかい。とはいえ、メイクで鼻とか顎とか意図的に変えてる部分もあるようだけど。
リンカーン大統領は前説でも少し述べたがアメリカ合衆国歴代大統領でも1位、2位を誇る人気の大統領。アメリカンドリームの体現者でもあるが劇中でも木こりとしての腕で斧を巧みに操っていて、その他にもアマレスの達人でもあったらしく知力、体力ともに抜群であったということだろう。実際は彼自身は消極的奴隷制廃止主義者とでもいう感じであり、そんなに愛と正義の人というわけでもなくあくまで政治的判断が先行したのであろう。とはいえ歴史に残る人物であるのは間違いない。ベンジャミン・ウォーカー演じるリンカーンは正直もっさりしていてヘンリー初めとする脇のキャラクターの方が格好良く影は薄い。田舎の好青年だがでくのぼうすぎて(実際はキビキビ動くんだけど)とらえどころがない感じ。実際若い頃はそんな感じだったのかなあ。ところが歳を取って大統領になると例の髭も生やし*3老けメイクが一番しっくりしている。他のキャラが若い人を無理やりメイクで老けさせたなあ、という感じなのに。
その他のキャラクターもヴァンパイア以外はほぼ実在の人物で固めていて、黒人青年ウィルも若き日の雇い主スピードも実在している。スピードに至っては役柄と名前的に「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズのスピードワゴンに似ているなあ、などと観ながら思っていたのだが正真正銘の実在の人物。正式な名前はジョシュア・フライ・スピードで若いころのリンカーンを支え(劇中のように雇いつつ部屋も貸して寝食を共にしたため、恋人であるとも疑われたらしい)たため、先に実在の人物であると知っていれば彼について劇中の出来事で別の見方もできて、ちょっと事前に詳しくリンカーンの周りの人物について勉強しておけば良かったと思ってしまった。スピードを演じているのはジム・シンプソン。
ウィルも正式な名前はウィリアム・H・ジョンソンで小さい頃にリンカーンと出会っていたかは不明だがスプリングフィールド時代から大統領時代までずっと彼の雑務をこなしてた人物らしい。
その他、リンカーン夫人であるメアリー(演じるのはメアリー・エリザベス・ウィンステッド)はもちろん実在の人物。劇中ではアラン・テュディックがノンクレジットで演じたスティーブン・ダグラスは、メアリーの元恋人でリンカーンにメアリーを奪われたため政治的に対立したかのように描かれているがこの辺はフィクションだろう*4
アラン・テュディックと言えば「ROCK YOU!ロック・ユー!」なのだが、敵役であるヴァンパイアの首領アダムにやはり「ロック・ユー!」の敵役アダマ−伯爵のルーファス・シーウェルが扮していたので一瞬「ロック・ユー!」見ているかのような錯覚も。
アクションはカット割りで何がなんだか分からなくなる、ということもない表現だったが(突然馬の群れに巻き込まれたりしてはいたが)ポスター等で強調されていたリンカーンの斧アクションはそれほど多くなかったのが残念。
南北戦争はアメリカが建国以来体験したどの対外戦争よりも犠牲者が多い、近代の総力戦の初めに来るものである。南部は徹底的に焦土と化し完全に復興するのに1世紀近く要したというし、ガトリングガン(当時最新の大量破壊兵器だ)などが使われたのも南北戦争が最初らしい。よく言われるように奴隷解放の理念が先行しているが実際は南部と北部の経済体制に違いによる争い(奴隷制度もその一つである)が大きく、工業が発達し自由経済がメインだった北部では強制的に奴隷を働かせるより労働者を雇用したほうが効率が良かったし、逆に綿花栽培のプランテーションがメインの南部は奴隷制度に支えられていた。劇中にも一瞬登場するが南部は正式に合衆国からの独立を宣言しジェファーソン・デイヴィスを最初の(そして最後の)大統領としてアメリカ連合国を成立させている(今でも南部で見られる赤地に青のクロスが入っている旗はこの時のもの)。だから正確には内戦と言うよりは独立戦争と再統合という感じなのだがとにかく戦争しまくっているアメリカの歴史においても一番ひどい戦争と言えば南北戦争を指す。
その南北戦争において一番の激戦だったのが劇中でも出てくるゲティスバーグの戦いであり、この戦いに勝利することで北軍の優勢が確立されたとされる。面白いのは映画の中ではこの戦争に対し、デイヴィスがアダムと取引しヴァンパイア達を兵士として貸し出す。銃撃を物ともしないヴァンパイア達は当然戦争で大活躍し北軍は不利になる。それに対してリンカーンが取ったのが銀製品を供出させて加工し銀の弾などを作り出して戦場に送るというものである。ここにおいて劇中では文字通りこの戦争が人類対吸血鬼という様相を迎える。
ラストは勝利したリンカーンが妻のメアリーと芝居を見に行くシーン。ご存知のようにこのあと彼は背後から撃たれて死を迎える。また、現在においてヘンリーが同じようにヴァンパイアハンターをスカウトするが、その彼が黒人であるというのも興味深い(てっきり彼が後のオバマ大統領である、というオチかなとおもったが、それは違うか・・・そうならよりオチは効いていたと思う)
全体的には歴史的事実とフィクションの境目をうまく行き来していて面白かった。もちろん、ところどころ文句がないわけでもないけれど。とりあえずあれだね、こういう時こそ原題をそのままカタカナにした程度の「リンカーン ヴァンパイアハンター」とかでいいだろうに下手に「秘密の書」なんてつけちゃったからなんのことかと思っていると単にリンカーンが密かに付けてた日記というだけでその辺は拍子抜け。
冒頭に聖書の一節が出てくるが当然ここでのアブラハムはリンカーンのファーストネームであるエイブラハムとかけてある。またヴァンパイアのリーダーの名前はアダムだが吸血鬼の始祖はアダムとイブの息子で(ヘブライ神話における)最初の殺人者であるカインである、という説もある。まあカインは普通に人類の先祖でもあるわけだけど。そのほか「吸血鬼ドラキュラ」における最も有名なヴァンパイアハンター、エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授と同じ名前である、というのも発想の元なのだろう。
最期に一つだけ。奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説などで博愛主義者のように思われているリンカーン大統領だが、彼はインディアンに対しては徹底的な弾圧を与え、今日にまで至る被害を与えた人物でもある。彼は黒人に対しては人民だと思っていてもインディアンのことは人類だとも思っていなかった。リンカーンの功績は否定しないがそういった部分ももっと知られるべきだと思う。