The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

彼の名はオスカー・グラント フルートベール駅で

 しばらく実録物ノンフィクション作品が続きます。まずは2009年に起きたとある事件の犠牲者のその最後の一日を追った「フルートベール駅で」。

物語

 2008年12月31日サンフランシスコ。前科のある青年オスカーはその日、妻のソフィーナと娘タチアナを職場と幼稚園へいつものように送り、母親からの電話を受ける。良き父、良き夫、良き息子であろうとするオスカーだが、出所したての彼には仕事が無い。以前の職場はすでに代わりの人員がおり雇う余裕はないと言われている。家賃の支払もままならないオスカーは再びクスリの売買に手を出そうとするのだが、思いとどまる。
 夜、親戚一同と食事をし、母の誕生日を祝ったあと、オスカーとソフィーナは娘を預け、仲間たちと新年を祝う花火を見に行く。当初は自動車で行く予定だったが、酒を飲んでも安全、という母のアドバイスで電車で出かけることに。仲間たちと新年を祝うオスカー。そして電車はフルートベール駅へ・・・

 実際にあった事件。主演は「クロニクル」で超能力3人組の一人を演じたマイケル・J・ジョーダン。あの時の朗らかな優等生とは別物の悩める若者を演じている。「クロニクル」では生徒会長を務める優等生だけれど厭味のない誰にも好かれそうな青年を好演。本作では境遇は正反対だけれどその人懐っこそうな笑顔は相変わらず。
 この作品は2009年の1月1日に起きた警察による射殺事件を被害者の視点から最後の一日を丹念に追っている。オスカーは電車の中で白人と喧嘩騒ぎになり、抱えつけた警官に取り押さえられたあと射殺された。白人の警官が特に大きな事件でもない騒ぎで黒人の市民を射殺したということで人種差別が引き起こした事件という感じだが、映画だけ見ると特に人種差別事件という印象は受けない。もちろん、白人の警官が喧嘩のもう一方、白人の方は無視で黒人ばかり取り押さえようとしたのは人種差別の意識が働いたのかも知れないし、劇中冒頭で実際に出てくる携帯電話で撮影された映像などから警官がやり過ぎたことは明らか。ただ映画ではむしろ日常を精一杯生きようともがいていた青年が、その行いとは無関係に不条理に命を奪われた、その悲劇性の方が強い。
 白人警官が黒人を暴行した事件というとロサンゼルス暴動のきっかけになった1992年のロドニー・キング事件が有名だがアメリカでは定期的に起きているような気がする。

 映画は先に結末を見せてから本編に入るのでこの映画がノンフィクションだと知らず、この事件について知らない人が見ても結末は予想できる。それ故、青年の身に起きたかわいそうな出来事、という物語とは別に、破滅へ向かうサスペンスとして見ることができる。僕は「ユナイテッド93」を思い出した。またオスカーが家族や友人と一緒にいたシーンにおいてはおそらくかなり忠実なのだろうと思う。その一方でガソリンスタンドで給油してた際にかわいがった野良犬が車に轢かれるシーンとか、金を調達しようとヤクを売ろうとして、しかし思いとどまってヤクを海へ捨てるシーン(その後のわずかに残ったヤクをただであげるシーンもあるが)などは流石にフィクションかなと思う。あまりに不吉というか今後を暗示し過ぎで創作なら少しやり過ぎですらある。
 また、オスカーの母親が善意で「電車にしたら」というのだが、観客はすでに結末を知っているがゆえに「ああ、そこで従っちゃダメだ」とやきもきするのだ。そういった意味で考えさせられるドラマとしてのみならず、サスペンス映画としてもよく出来ていると思う。

 キャストは他にオスカーの妻のソフィーナに「僕らのミライへ逆回転」のメロニー・ディアス。そして母親には「ヘルプ」のオクタヴィア・スペンサー。最近の出来事だしオスカーは22歳という若さだけれど実はもう僕なんか1970年生まれのオクタヴィアの方に近いのだなあ。
 フルートベール駅で出てくる警官の一人は「ロビン・フッド」のケヴィン・デュランド。「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」「リアル・スティール」で二度にわたってヒュー・ジャックマンとやりあった人でもある。この上背のある巨漢白人がてっきりオスカーを射殺する警官なのかな、と思いきやそうではなく実際に撃つのはもうちょっと繊細そうな若い白人警官である。この警官が撃ったあとケヴィン・デュランドは「お前何やってんだよ・・・」というような表情を見せる。実際にはこの若い警官が事態にパニクって撃ってしまったというあたりが実情なのかもしれない。もちろんそこには黒人の若い集団に対して恐れや差別心があったのかもしれないが先述したとおり少なくとも映画の中ではそれほど人種差別が直接の原因という描かれ方はしていない。逆にその意味で余計にオスカーの死に「なぜ?どうして?」という思いが残る。監督はライアン・クーグラー。オスカーと同世代のまだ若い監督で彼も黒人。しかし彼は必要以上に映画の中で事件の直接の原因が人種差別である、と叫ぶことはしない。むしろもっと冷静に事件を考えてほしいと訴えているかのようだ。だから映画は最後にオスカーの残った希望、娘タチアナの現在の姿を見せて終わる。制作はフォレスト・ウィテカー

 この映画の惹句には「名もなき青年の死に全米が泣いた」というものがある。しかしもちろん青年にはオスカー・グラントというちゃんとした名前がある。そんな青年がその生き様とは関係なく理不尽な死を余儀なくされた。だからこそ人は憤るし、映画化されれば涙するのだ。