The Spirit in the Bottle

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手塚治虫と横山光輝 そのエロチシズムの違い

*この記事の感じ方には個人差があります。
 「パシフィック・リム」がまもなく公開!ということで監督が来日したり怪獣とロボットの映画ということで色々と日本のマンガ、アニメ、特撮といったものの影響なんかも話題になったりしています。まあでもあんまり「日本の影響受けた」ばかり強調するのは個人的にどうなんだろう、という気もするし、日本のそういうのが大好きというのももちろん嘘ではないだろうけどリップサービスもあると思います。個人的にはギレルモ・デル・トロの作風というのはあえて日本で言うなら横山光輝水木しげるの絶妙なブレンド、という印象ですね。最もこれは「ヘルボーイ」原作者のマイク・ミニョーラの作風とごっちゃになってる感じもしますが。
 で、横山光輝ですよ。僕は横山光輝の作品が大好きなのです。もちろん戦後の日本の漫画史に輝くような人たちは皆素晴らしいのだし、僕自身はほぼ後追いで読んでいるわけだけどその中で一番しっくりきたのは横山光輝の諸作品なわけです。
 この記事も最初は「パシフィック・リム」を観たあと、その関連として日本の漫画家について少し書ければいいなあ、などと考えていたら、脳内で全然別な方向へ行ってしまったので独立した記事としました。つまり「手塚治虫横山光輝のBL的描写の違いについて」。
 
 
 国産連続TVアニメ第1号である手塚治虫の「鉄腕アトム」。そして同時期に放送されたのが「横山光輝」の「鉄人28号」そして平井和正桑田次郎の「エイトマン(8マン)」。それぞれ、自律するロボット、外部操縦のロボット、サイボーグとロボ物の雛形がアニメ最初期にほぼ出揃っているのが象徴的。また「鉄腕アトム」と「鉄人28号」はその後も常にほぼ同時期にアニメ化がされている因縁ある作品。ここに人間が直接乗り込んで操縦する、という永井豪の「マジンガーZ」を加えるとほぼロボット物は勢揃いして後はそれぞれのアレンジという具合になる。
 横山光輝手塚治虫とおなじ関西出身であり、手塚治虫の原稿を一部手がけていたことなどもあり、初期は手塚治虫の画風によく似ている。その後完全に独自の絵柄になっていくがその中でも同性愛的な描写、要するに男と男のシーンでは二人の違いがよく分かる。
 少年に対する執着した愛情などを「ショタコン」というがこれは「鉄人28号」の金田正太郎少年から来ている(言葉が誕生した当時は「太陽の使者 鉄人28号」が放送中で原作風のスーツに半ズボンの正太郎少年なのか「太陽の使者」版の正太郎少年のどちらをさしているのかは諸説あり)。横山光輝は「コメットさん」「魔法使いサリー」など少女マンガも手がけているがなぜ少年が注目されたのか?
 僕の大好きなアニメ作品でもある「ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」の今川泰宏監督(鉄人28号も監督してる)はその昔、横山光輝の「伊賀の影丸」における影丸が怪我をして裸になるシーンでリビドーを感じた、と「B-CLUB」のコラムで書いていた気がするのだが、それはよくわかります。横山光輝の作品は女性っ気の少ないものが多い。代表作の「バビル2世」は最初に主人公の同級生やバベルの塔を守ってきた女性などが登場するがその後はほぼストイックなまでに男しか登場しない。それではエロチシズムが皆無かというとそうではなくバビル2世の少年の引き締まった細い体がヨミたちによって傷ついたりする部分に容易にエロチシズムを感じることができる。それにしてもそのエロチシズムは普通に男性が女性に感じるものとは別物だ。そのストイックさも含めて衆道に近いものではないかと思う。
 分かりやすいのが横山光輝が後期に多く手がけた歴史物で、もともと女性の登場人物は数少なかったり「水滸伝」など男同士の友情がホモソーシャルを感じさせる題材であったりするのだけれど、女性の裸も登場しないではないがそこにはほとんどエロチシズムを感じない。エロチシズムを感じるのは「伊達政宗」で政宗結城秀康が温泉に入っていたら蛇が出てくるシーンとか「織田信長」の信長と人質の竹千代(後の徳川家康)のシーンであったりする。絵も決して丸みを帯びているわけでもなくかと言ってマッチョに描かれてるわけでもない。先程も書いたが、細身の少年のような裸がエロチシズムを生んでいるのである。逆に横山光輝がこの画風で女性を描いても(もちろん容姿の上で美女を描くことは出来る)その色気は男性、特に少年キャラクターにはかなわない。

 対照的なのが手塚治虫手塚治虫も同性愛というか男性か女性か分からないようなキャラクターを多く書いているが初期の「メトロポリス」のミッチィから「MW」の結城美知夫までエロチシズムを発揮する時はその身体は女体化する。中期に大活躍した美系悪役のロック・ホーム(間久部緑郎)が女装したり、結城美知夫が賀来巌に迫るとき、それはほとんど男性であるというのを感じさせない。その意味において手塚治虫の同性愛描写は明確に男女の役割を分担する。絵も女性役を担当するキャラクターは丸みを帯びている。手塚治虫の場合横山光輝のようなストイックな少年が色気を出すことは殆ど無い。まるでブルマを履いているようなアトムも含めて、どちらかと言おうと少女性がエロチシズムを漂わせることになる。だから手塚治虫のキャラクターはエロチシズムを漂わせるときにはその身体も女性にメタモルフォーゼする。

「MW」より。今回手元に本がない状態で書いてるのでネットで拾った画像です。これは中国語版?

MW(ムウ) (1) (小学館文庫)

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 今回は(特に同性愛的描写における)エロチシズムを取り上げたが、この二人は本当に対照的で共に日本の漫画史における巨人であることは間違いない。彼ら含めて初期に多様な作品を排出された日本のマンガはとても幸運だったと思うのです。
 発端が「パシフィック・リム」とは思えないほど別の内容になってしまった!