The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

カナシミよこんにちは インサイド・ヘッド


 前回の記事が予想以上のバズり方をしてちょっと怖くなってしまったわけですが、いわゆる映画感想記事の中でも酷評と言っていい記事で過去最高のはてなブックマーク数を集めてしまったことはちょっと複雑(この次が「パシフィック・リム」の感想でやはり褒めてない記事)で、好きだと思った映画をべた褒めしてるような記事がもっと読まれるようになるといいですね。では気を取り直して。ピクサーの最新作「インサイド・ヘッド」を観賞。

南の島のラブソング


 同時上映の短編(厳密にはこの前に日本独自のドリームズ・カム・トゥルーによるイメージビデオが流れるんだけどこれは後述)は「南の島のラブソング」。海上にポツンと浮かぶ火山島が孤独の中歌い続けていたが、やがて海中に没する。入れ替わりに若い火山島が浮上。その歌声に反応して再び古い火山島も隆起し2つの島は合体してめでたしめでたし、みたいな感じ。
 正直、あまり出来はよろしくないと思いました。流れ自体はまあいいとして、ほぼ同じメロディーの繰り返しが続くのと、古い火山がおっさん、若い火山が女性として描かれているのです。これは厳密な生物ではない自然を擬人化しているのだし、もう少し年齢による外見はともかく性別は曖昧にして恋愛というよりも友情に近い描写の方がよかったのではないかなあ、などと思ったり。こういう事を書くとまたぞろ「PCにとらわれすぎてる」とか言われるかもしれないけれど、前回の実写版「進撃の巨人」にしても今回にしても、特に最初から「ジェンダー描写がどうなってるか確認してやる」というつもりで観賞に臨んでいるわけではなくて、なんか乗りきれないなあ、と思ってその原因を探るとどうやら問題はその辺にある、ということが多い気がします。

インサイド・ヘッド

 人間がこの世に生を受けると赤ちゃんにも感情が芽生えます。まずはヨロコビ、そしてビビリ、ムカムカ、イカリ。それからカナシミです。この感情たちが子供をそれぞれの得意分野で守り、一緒に成長していきます。ミネソタの女の子ライリーも5つの感情に守られながら大きくなっていきました。しかしある時、親の都合でサンフランシスコへ引っ越すことに。都会に馴染めず、両親やミネソタの親友ともギクシャク。そんな中ライリーの頭のなかではヨロコビとカナシミが脳内司令部から放り出されるという事件が起きます。早く戻らないと!やがてライリーの頭のなかのイマジネーションの世界が次々と崩壊。このまま司令部に戻れないとライリーの心が壊れてしまう!

 特に観たくもないドリカムのイメージビデオ、正直不出来な短編、と苦行を乗り越えてようやく本編。ただ、映画にもスタート直後からアクセルをガンガン吹かすタイプの作品もあれば、スロースターターな作品もあって、この「インサイド・ヘッド」はどちらかと言えば後者だと思います。また主人公にあたる擬人化した感情であるヨロコビが無邪気ないじめっこというか自分が絶対正しい、ネガティブな奴は嫌い、というタイプのキャラクターで最初のうちは共感できるどころか見ていて嫌なやつ、と思ってしまうのでなかなか映画に入り込めませんでした。
 特にカナシミに対する態度がひどくてこの辺は結構後半になるまで苛つきっぱなしでした。ヨロコビとカナシミが司令部の外に放り出され、戻るための冒険を続ける時もとにかくカナシミを邪険に扱う(なんならなんとかカナシミを置き去りにしたまま自分だけ司令部に戻る方法はないかと考えたりする)ので。ただこういう主人公が最初は嫌なやつという作品もあるわけで(第9地区とか)、そのヨロコビの変化も見どころですね。その分後半のクライマックスが活きるわけですし。
 途中、ライリーの架空の友達だったビンボンと出会う。このビンボンがちょっと怪しげで最初ライリーの思い出を封じた玉を盗もうとしてるっぽいのだけれど、あれはなんだったんだろう?結局最後まで明かされなかったような。古くなった特に重要ではない思い出は処分されてしまうので、自分とライリーの思い出の詰まった玉を保護した、とかなのかなあ。
 基本感動路線でスペクタクルな部分も多く、笑いもたくさんつまっています。ただ頭の外(原題は「Inside Out」)、いわゆる現実のライリーの描写はこれまでのピクサー作品にない痛々しさ。ヨロコビたち脳内のドタバタファンタジー路線と対照的にライリーの壊れていく様子がヒリヒリ伝わってきます。

 面白いのは劇中、ライリーのパパとママの頭のなかも映しだされていて*1、そこでは感情たちの性別がはっきりしているのですね。ママなら全員女性に、パパなら男性に。これから思春期を迎えようというライリーの中では女子人格が3名、男子人格が2名という構成。これが思春期を迎え成長するにしたがって、(ライリーの場合であれば)ビビリやイカリが女性化して行くのでしょうか?あるいは人によってはその変化の枠に留まらない人もいるのかもしれません。
 また、ママの頭のなかではカナシミが司令官になっていますが、パパの頭のなかではイカリが司令官となっています。この辺もそれぞれベースとなる人格が、どの感情が大きいかで判断できるようで興味深いです。ただ、大人であるパパとママの感情たちはそれぞれの感情が特出することなくカナシミであってもムカムカの要素もあればヨロコビの要素もあるみたいに極端化していないのです。これがそれぞれの感情が激しく自己主張して爆発しやすい子どもと多少嫌なことや嬉しいコトがあってもすぐ表に出さない大人との違いと言えます。この辺、感情のメカニズムをうまく擬人化していていますね。

 さて、今回は日本語吹き替えで観賞。ヨロコビの竹内結子、カナシミの大竹しのぶ、ビンボンの佐藤二朗あたりがいわゆる「タレント吹替」か。でも事前に知ってた竹内結子大竹しのぶはもちろん、知らなかった佐藤二朗も素晴らしくてまったく問題はなかったです。3DCGアニメとタレント吹替の相性は比較的良い!と言うのは今回も実証。
 で、やはりいちばん嫌なのはドリームズ・カム・トゥルーによる日本独自のテーマ曲「愛しのライリー」のイメージビデオが本編前に流れること。日本の子供の笑顔がたくさん映しだされるやつで、テーマに反して流れてる最中ずっと感情を殺してました。いや正確には「ライリーライリーうるせえなあ。お前はやしきたかじんか!」とムカムカとイカリが司令部の主導権を握っていたかも。

砂の十字架

砂の十字架

 僕は別に日本語吹き替えはもちろん、多少のローカライズも構わないと思っていて、特にこういうファミリー向けの映画ではむしろ必要な作業だと思っています。吹替、劇中出てくる新聞などを日本語に変える作業。そして主題歌の日本語版制作。例えばオリジナルで使われている主題歌の日本語版、向こうのアイドル的歌手が歌っているなら日本でも似たような位置づけのアイドル歌手に日本語で歌わせるとかは全然いいと思います。その意味でオリジナル至上主義ではないです。多分日本以外では特にディズニーやピクサーの作品なら各国向けにローカライズして公開と言うのはむしろ普通のことだと思うし。
 ただ今回のはいただけませんね。どちらかと言えば「風立ちぬ」の映像をいろんな映画の前に流した無神経さに近いと思います*2。これが開場後、上映前の明るい時に流れてるだけとかだったらまだ全然いいと思いますが。あと僕の場合、上映前に予告編集を観るのも劇場鑑賞の醍醐味なので、このドリカムのが終わった頃に入る、という選択肢も取れず、辛かったです。ドリームズ・カム・トゥルー自体には思うところはあんまりないのですが(決して好きではない)、これで「本編前のドリカム良かったね」という人もそうそういないのではないのかと思うので誰も得しない感じですね。ローカライズの方向性を間違えないでほしいです。本編そのものの日本語吹き替えはとても良かったので本当にそういう直接関係ないところでネガティブな印象がつくのは残念!

インサイド・ヘッド オリジナル・サウンドトラック

インサイド・ヘッド オリジナル・サウンドトラック

THE ART OF インサイド・ヘッド (ジブリ)

THE ART OF インサイド・ヘッド (ジブリ)

 なぜ人には悲しみが必要なのか?楽しいだけではダメなのか?そういうあたりを単純化してはいるものの、うまく描いた作品ですね。オススメ。
悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

記事タイトルはこちらから。

*1:エンディングでは登場した様々なキャラの脳内も映し出される

*2:映像と歌が良かったのでそれほど苦にならなかったけど「アナと雪の女王」の「let it go」が流れるのも同じかも

壁から出ることを拒んだ制作者たち 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

 公開初日に観に行ってきました。実写版「進撃の巨人ATTACK ON TITAN」。以前にアニメ映画「進撃の巨人」の方でも書いたとおり僕は「進撃の巨人」の映像コンテンツとしてはアニメ版の方で満足してるので特にこの実写版を観る気もなかったのですが、試写会で観た人たちの評価が高かったこと、公開日が映画の日だったこともあって劇場まで観に行きました。なんだかんだ気になる題材ではあるのですよ。「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観賞。最初に言っておきますがまったくと言っていいほど褒めてません。けなしてます。

 この作品を観る前には予告編以外は特に積極的に事前情報を得ることはしなかった。それでも先に言ったような試写会で観た人たちの反応や、某評論家?の観た観ないでの監督とのいざこざ(評論自体は読んでない)、脚本を担当した町山智浩氏が何度も「原作者公認のもと色々変えた」という発言などは入ってきていた。僕自身この映画化は多少ネガティブに捉えたこともあってかなり構えて臨んだことも事実。ただこれは特にこの作品だからというより、邦画の漫画の実写化作品、ましてやその原作のファンとしてはいつもの僕の態度である。
 結論から言うとかなりダメで、キャストや特撮技術は頑張っていたと思うけれど、肝心のドラマ部分が演出・脚本共にダメで多分今年のワーストとなる作品だろう。
 共同脚本の町山智浩氏の意向がどのくらい脚本で占めているのかは分からない。でもインタビューなどを読む限り、物語や設定の多くは彼が考え渡辺雄介氏がまとめたという感じなのだろうか。
 僕は町山智浩という人物には大きな影響を受けている。雑誌化する前の「映画秘宝」を読んだ時の「やっと自分の満足する評論に出会えた」という気持ちは今でも変わらない。映画を観てただ面白かった、と思ってそれで終わりだった頃は町山氏(や映画秘宝のライター)の評論はほぼ全面的に受けれ入れていた時期もある。ただ曲りなりも自分で映画の感想を文章化してブログという形で外に出すようになると、なんか違うな…と思うようになってきたことも事実。さらに評論以外のSNSなどでの部分に触れるようになって(特に2011年以降)徐々に映画秘宝からは離れてしまった。これは僕が変わった面もあるが町山氏や映画秘宝自体がかつてはメジャーに対してのカウンターだったのに今や権威となってしまった部分も大きいと思う。
 この映画「進撃の巨人」では監督が樋口真嗣氏。かつて「パシフィック・リム」の時に「この映画は君ら(女子)のものではない」発言をした人だ。町山氏も「女性が急にマニアックなものを読み始めたら男の影響」等とツイッターで発言してそのとても古臭い価値観を爆発させていた。だからその二人による映画化と聞いてとても不安だったのも事実だ。「パシフィック・リム」は作品自体は僕は退屈に感じたけれど、あそこでの女性(菊地凛子)の描写はとても現代的なものだった。
 諫山創によるマンガ「進撃の巨人」を実写映画化する際に、例えば原作の方では人類を構成する人種がほとんどが白人で、主要人物のミカサ・アッカーマンが数少ない東洋人という設定などは日本人キャストのみで映画化するならまず無理なわけで僕自身「とにかく原作に忠実に撮れ」などは思わない。ミカサに白人俳優を当てて人種を逆転させるとか、希少な東洋人という設定は無視とか全然OKだろうと思った。僕が考える「進撃の巨人」の芯となる部分は

  • 人を食べる巨人のせいで巨大な壁に囲まれた人類の生存圏
  • その最前線で戦う少年少女達
  • アクションとしては立体機動

の3点だろう。だからこの3点が守られていれば設定的にまったく別ものになっていてもそれだけで批判する気はなかった。こうして(僕の考える)作品の基板を考えると、「進撃の巨人」の映画化は単に漫画の実写化と言うよりはアメリカ映画における「ハンガー・ゲーム」や「メイズ・ランナー」のようなヤングアダルト小説の映画化に近いのではないかと思う。
 だから映画独自の設定、全員人種的に東洋人、自動車(飛びはしないがヘリも出てくる)や銃器もある、より現在の延長線上にある世界観。軍艦島で撮影されたという壁の中の世界、などは全然問題無く受け入れられた。ただ登場人物の名前が日本人風になっていたり、シガンシナ地区にあたる地名がモンゼンとなっていたりする日本語の世界にしてししまったのは正直ださい。そのくせ、エレン、アルミン、ジャン、サシャなど一部の人名だけは原作のままだし。僕はもうこういうのは開き直って(少なくとも現在から100年以上経っているわけだし)原作風ネーミングで良かったと思うけれど。そのくせリヴァイに関しては「東洋にはヴの発音がないから」とかいうわけのわからない理由で却下にしているし。いや今現在公式に人名に使えるか分からないけれど、「V」を「ヴ」で表す表現は一般的だし、100年以上後の世界でなんでそんな理由が出てくる?別に表記は「リヴァイ」で発音は「リバイ」でいいじゃん。まあ、リヴァイに関しては誰が演じてもどんな出し方をしても難しいので出さない事自体は正解だと思うけれど理由はまったく理解できない。あと原作の舞台はドイツで出てくるのもドイツ人と言っているけれど、モデルにはしているかもしれないけれど、ドイツそのものではないよねえ。いや原作者が脚本家にだけ語った設定とかあるのか知れないけれど。 
「改変部分は原作者公認」。このフレーズは何度も目にした。原作者諫山創の実際の考えはわからない。でもすでに世に送り出された漫画作品「進撃の巨人」はこの手のアクション作品としては珍しいぐらい、ジェンダーの描写がフラットである。劇中では訓練兵団、駐屯兵団、調査兵団憲兵団、などと分かれるが、女性兵士が男性兵士に現場レベルで引けを取る描写はない。さすがに政治制度は中世的な王政だったりすることもあり上に行くほど男性ばかりになるが、若い兵士の間に男女での線引が全くない。女性の描写でもエレンを守ると言って最強の兵士となったミカサ。そのミカサと並ぶアニ。食べ物に異様な執着を見せるサシャ、クリスタにどこか同性愛的な態度もみせるユミルと典型的な女性の描写の枠にはまらない。いわゆる典型的なヒロインとしての描写の女性キャラはクリスタぐらいのものである。もちろん例えば鳥山明が恋愛描写が苦手だから「ドラゴンボール」で悟空とチチの結婚を「じゃ、結婚すっか」で終わらせてしまったように、もしかしたら実写映画のような女性描写をしたいのに苦手だから省いていたり、あるいはそれを漫画にする術が追いつかないのかもしれない。でもこの作品の女性描写は現代的な女性を描いている少年漫画としてはかなり稀有な作品であるし、キャラクター的には人気の一因だと思う。
 昨今のアメリカ映画は昔ながらの女性描写を避け練りに練った上で男女だれでも楽しめるように作られている。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」などはその最高峰といえるだろう。観た後にツイッターで製作者の一人が「ハリウッドだけ観ればいい。金で顔叩かれた映画を観ればいい」などと投稿していたが、負けているのは予算でも技術でもなく製作者の古臭い価値観だと思う。最近の映画(特にアメリカ映画)では頻繁に問いただされる「ポリティカル・コレクトネス(PC)」は作品の幅を広げこそすれ、狭めるものではないと思っている。
 僕は比較的高い評価をしているアニメ版の「進撃の巨人」でさえ、ミカサやアニの(原作にない)過剰な女性らしい描写が余計だと思うたちなので、はっきり言ってこの作品の前時代的な女性描写は到底受け入れられなかった。原作が現代的な描写で世界的に受け入れられやすいものとして表現されているのに、なぜわざわざ日本(それもかなりおっさん的な価値観)でしか受けないような描写に変えて自ら門戸を閉ざすのか。原作が最初からそういう風な描写であればまだいいが、そうではないのである。エレンやアルミンたちと違って彼らは日本という壁から出る気がないのではないか?
 エレンの巨人に対する「駆逐してやる」という動機も原作の母親が眼の前で食われて助けられなかったと言うものから、ミカサを助けられなかったというものに変えられている。さらにミカサが無事だと分かった後にミカサが軍の英雄であるシキシマと男女の関係にあることを知らされて絶望しその後人妻兵士にセックス迫られ胸を揉む展開など噴飯物。ミカサが無事だったならそれでいいじゃん!なんだよ別にミカサはお前のものじゃないんだぞ。原作のエレンはミカサに庇護されていることに無自覚に甘えている部分はあるものの、「お前は成績トップなんだから憲兵団にいけ」」といったりきちんとミカサを自分と切り離して別人格と考えることのできるメンタルの持ち主なのに。で、その人妻兵士ヒアナ、水崎綾女が演じているがもう勝手に男性の妄想による偏見的な女性像が一挙に投影されていて、作戦でミスをして部隊を危機においやる女性、子沢山の母親、同僚に迫る好色な女性、と一人で男性の妄想を背負わされていて辛い。しかも色っぽいシーンを見せたら出番終了とばかりに巨人に食われてしまう。
 この「動機の変更」は「母親が目の前で食われた」では弱い、と考えた監督に拠るものらしいのだけど、こんな母親と恋人みたいな選択肢どっちが正しいわけでもなし、原作通りの描写でいいと思う。漫画「HUNTER×HUNTER」だったらハンター試験の会場に付く前に不合格にされる展開だぞ*1HUNTER×HUNTER」第一巻は1998年の作品だがこの映画の価値観は17年以上古い!

 あと僕は師弟関係にある男女が男と女の関係になる展開が個人的に嫌いだということが最近分かってきた。ウィル・スミスの「フォーカス」が良かったのは(詐欺の)師匠にあたるウィル・スミスが弟子に当たる女性マーゴット・ロビーの自分に向けた恋愛感情に気づくが、身を引く。そして後に対等な立場で再会し改めて関係を構築する。その師匠と弟子の関係にきちんと一線を引いている。実写「進撃の巨人」のシキシマとミカサの関係が個人的に気持ち悪いと思うのは原作のリヴァイ(リヴァイ自身は出てこないがシキシマのモデルであるのは容易に分かる)とミカサと違う、というのもあれど、こういう性的にルーズなところもあると思う。あとこれは直接実写版には関係ないのだけれど、原作の方では最近どうやらリヴァイとミカサは同じ一族というか姓を持つ親戚同士であることが判明して、そういうのもシキシマを見ながら思い出されてしまって個人的に嫌悪感。シキシマは格好いいというキャラのはずなのに、全部のシーンが気持ち悪かったな。このキャラが監督の自分を通すフィルターになっているそうで、一言キモい。

スターシップトゥルーパーズ

 で、多分製作者たちが意識したのはポール・バーホーベン監督の「スターシップ・トゥルーパーズ」で、本作は和製「スターシップ・トゥルーパーズ」として作られてたのではないかと思う。

  • 意思疎通が出来ない敵と戦う人類
  • 人類国家は全体主義
  • 最前線で戦う若い兵士たち

という要素はほぼ共通。主人公(リコ=エレン)が恋人(カルメン=ミカサ)をエリート軍人(ザンダー=シキシマ)に寝取られたり、その後別の女性(ディジー=ヒアナ)とベッドシーンになる展開なども共通している(そしてその別の女性が死ぬところも)。あるいは原作をほぼ無視で映画化したあたりも意図しているのかしれない。
 でも当然ではあるが出来は遠く及ばない。「スターシップ・トゥルーパーズ」は事前に主人公と恋人、そして主人公に恋心を持つ女性、の関係が簡潔に描かれていた。そして男女の兵士がまったく遠慮することなく全裸となってシャワーを浴びるシーンがある。男女の部屋も一緒だ。ただ主人公のリコとディジーがベッドシーンを迎えるときにはきちんと互いの意思を尊重して行為に及んでいたし、その時点でリコはカルメンとの別れから立ち直っていてディジーを代替にするわけでもない。大体前線といってもきちんと休息期間の中での行為で急に盛ってセックスに及ぶわけではないのである。実写「進撃の巨人」だとそういう性的行為が「前線で命のやりとりをしている人の生物としての本能」という描写なのかもしれないがそんなの戦時暴力と一緒じゃん。「スターシップ・トゥルーパーズ」は作品全体が皮肉で覆われていて、劇中に出ててくる連邦軍の広報映像など自覚的だが、こちらの実写「進撃の巨人」の方はそのへんが無自覚のような気がする。あと「スターシップ・トゥルーパーズ」のベッドシーンは全然エロくなく作品の邪魔になっていない。エロくないベッドシーン?と思うかもしれないがあの作品においてはもしここで官能的なベッドシーンだったりしたら没入感の邪魔にしかならないだろう。一方実写「進撃の巨人」では露出こそトップをあらわにする「スターシップ・トゥルーパーズ」と違って直接的な描写こそないのに、明らかに色っぽく撮ろうという意図が見えて正直ノイズである。しかもその一連のシーン、ミカサとシキシマの男女関係を伺わせる描写、武田梨奈(ともう一人、渡部秀かと思うが画面が暗くて確認できず)のセックス、そしてそれを見て煽られたエレンに迫るヒアナと立て続けに出てくるのだ(そしてもしかしたらアルミンとサシャも?)。
 僕はベッドシーンやそれに準じるシーンをドラマの中でうまく挿入するにはセンスが必要とされると思っていて、樋口監督は過去に「パシフィック・リム*2の時に「女子のパイロットをローアングルで太腿に注視して撮れ」というようなことをツイッターで呟いていたが、はっきりいってそういうシーンを上手くドラマの中で活かせているか、と言うと全然そんなことはなく突然そういうシーンが挿入されるだけで女性をオブジェとしか見ていないのかなあ、という気がする。はっきり言うとセンスがない。一部によく見られる「娯楽映画にはセックスとバイオレンスがなきゃ!」みたいな意見は僕はまったく組みし得なくて、この作品の場合バイオレンスはあって当然だが、セックスなんてノイズにしかならず、セックスを入れなきゃ、なんて考えは大人どころかオナニー覚えたてのガキの考えだと思う。
 とにかく話しの構造としては「スターシップ・トゥルーパーズ」と似ているのに、観終わった後の感じ方は真逆ではないだろうか。スターシップ・トゥルーパーズ」は1997年の作品だがこの映画の価値観は18年以上古い!

スターシップ・トゥルーパーズ [Blu-ray]

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サンダ対ガイラ

 冒頭ナレーション(予告編では林原めぐみによる綾波レイ風ぼそぼそナレーションでうんざり*3だったのだが本編は別)で世界観の事前説明を終え、ちょっとした日常から超大型巨人の出現。壁が壊されて巨人が中に入ってくる、というながれ。巨人が暴れるいわゆる特撮部分は好き嫌いはあれど頑張っていたしある程度良く出来ていたと思う。個人的には巨人が醜すぎて愛嬌がゼロなのは嫌だし、巨大なゾンビとしての描写も微妙なところ。僕は何度か書いているが原作の巨人描写のすごいところはそれほど外見が常人と変わらないのに(もちろんいろんなタイプの巨人が出てくるのだが)まったく生物としての感情と知能を感じさせないところだと思っている。これが他の作家が描くとアニメにしても外伝漫画にして画がうま過ぎて意思のある生物に見えてしまうのだ。何を考えているかわからない恐怖が薄れてしまう。一方で超大型巨人や女型の巨人などはきちんと知性と人格が感じられ、他の巨人との差異が明確になっている。実写「進撃の巨人」では人が特殊メイクをして演じているが、やはりそれ故に何考えているかわからない恐怖は薄い。最初の襲撃シーンこそ様々なタイプ・大きさの巨人が出てくるが後は大体均一な大きさの巨人ばかりだし。後は皮膚の様子とかがかなり描きこまれて、腹のたるみとかキモさが目立って、でもおっさんに見えるところからいわゆるキモメン・ブサメンをテーマとしたアダルトビデオを見てるみたいだった。あと巨人には性器がないから乳首もない、みたいな説明がされるのだが、実写「進撃の巨人」には多数の女性タイプの巨人が登場する。原作では性器(男根)こそなくても男性タイプの巨人しか登場せず、だからこそ「女型の巨人」が衝撃を持って迎えられるのだが、後編で女型の巨人を出さないとしても、なぜ乳房をもつ女性タイプを投入したのかはよくわからない。巨人は全体的に不快感がたっぷりでそれは(一種のホラー映画として)成功なのかもしれないがどうなのだろう。人を食べるシーンは僕の感覚がおかしいのかもしれないがさしてグロくはないです。ただ汚い。
 超大型巨人はおそらくCGと模型によって演じられているが原作と違ってこちらは知能が感じられない。あとアニメや原作で象徴的な超大型巨人を後ろから俯瞰で全体像を映す描写がない。それで、超大型巨人の一蹴りで壁が崩壊する描写の衝撃が薄い。二度目の登場はなし。
 エレンが変身する巨人はほぼ原作に忠実なデザインで格好いい。一人だけ格闘技の技術を心得た巨人ということで戦い方も異なり、巨人対巨人は終盤のクライマックスとして面白かった。エレンを食べちゃう巨人の不快さは映画イチ。
 立体機動はまあこんなもんかな、という感じ。疾走感や飛び回る快感みたいなものは薄め。これで動くキャラが少ないのと、合成の関係か暗いシーンばかりなので立体機動に使うワイヤー(撮影用の方ではなくね)が目立たないのも難点。もっと昼間の明るいシーンで使って欲しかったな。
 全体として巨人のシーンは「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」が意識されているそうです。ただ黄金期の東宝円谷特撮だけあってサンダとガイラはデザインそのものは不快にさせないものだったんだが。

 この映画の好意的意見として「ドラマはどうでもいいから特撮映画として観れば」とか進撃の巨人ではなく実質サンダ対ガイラのリメイク」、「原作ファンは嫌いだろうけど、原作知らない人には楽しめるだろう」とかあったんだけど、個人的にはドラマを置き去りにした特撮映画など家でその特撮シーンだけ観るとかならともかく劇場で全体を見るときにはありえない意見だし、僕自身は原作ファンなので客観視は出来ないけれど、これは原作知らなくたってつまらないだろ、と思うし、「こっちは『進撃の巨人』観に来てんだよ。『サンダ対ガイラ』作りたいなら最初からそういう企画通せよ」としか思わないですね。

 キャスト、特に若手の俳優陣は頑張っていたと思う。エレン役の三浦春馬も主人公らしい精悍さであったし、ミカサ役の水原希子も似ていた。特に原作で金髪のちょっと小柄な少年であるアルミン役の本郷奏多は男性陣では一番良かった。ある意味一番難しいキャラな気もするし。女性陣ではサシャはほぼ唯一原作に忠実な設定*4で、だからというわけではないけれど演じた桜庭ななみの好演もあって実写版では一番好きなキャラですね(というか原作でも一番好きなキャラなのだが)。桜庭ななみはこの間久方ぶりに放映された「ナニワ金融道」のドラマでの演技が良くて、今後フジテレビがシリーズを続けるならもう中居正広には後衛に下がってもらって彼女を主役にしたら良いと思うぐらいだった。水崎綾女のヒアナは先述の通りダメな男の妄想を背負わされている悲劇のキャラクター。武田梨奈演じるリルは原作におけるハンナとフランツのバカップルをモデルにしたのだろうけど武田梨奈が男と寝ようとしてそれを見て水崎綾女三浦春馬を誘うシーンは古澤健監督の「アベックパンチ」での二人の勇姿を直に見てるだけにこの扱いが可哀想でなりません。何よりこの二人を起用しておきながらほとんど目立ったアクションないってどう考えてもおかしいだろ!
 一番話題の石原さとみ演じるハンジは顔つきやハスキーな声は原作やアニメのハンジ(声は朴璐美)に似ていて良かったが、背は低く石原さとみにしか見えないこともあってハンジの性別不明な魅力は薄い。
 予告編でも出てくるハンジの「こんなのはじめてー」というセリフのシーンとか、邦画でよくあるセリフとセリフの間に溜めを作って「さあ、これから名台詞発しますよ、皆さん準備はいいですか、せーの」ッて感じはやめて欲しいですね。結果として名台詞になるんじゃなくて「これがこの映画の名台詞ですよ」と押し付けられてる感じ、この映画に限ったことじゃないけれど本当辟易する。
 大人組はシキシマの長谷川博己がいちいち気持ち悪いのだが、まあこれは役柄か。全体的に役者はアクションが出来る人もできない人も頑張っていたと思います。演出と脚本が悪い。
 ドラマ部分の細かい展開(巨人が音に敏感だから音を立てる位なら死ね、と檄を発するもその後はほぼ無視、とか立体機動があるのにそれを活かしているのはほぼ一部でなぜ弓矢や斧の方が効果があるように見えるとか)は特に気にならず、というかその辺は映画のご都合主義で済ませられるのだけれど、それ以外が酷すぎてどうでもよく思えてきます。爆弾奪った犯人とかももう気にはならないけど後編で判明するにしても構成が下手だと思う(多分ウォール教信者か)。巨人一本背負いのシーンなんかは僕は原作で巨人がその大きさに比べて異様に軽い、という設定を知っているので別に変には思わなかったけれど、よく考えると逆にあれは原作読んでないとわけがわからないシーンだろうな。
 後編は9月には公開されるので比較的直ぐなんだけれど、現時点ではかなり迷うところ。後編だけ劇的に良くなることは期待できないしなあ。最初から前後編で一本あたり100分で公開するくらいなら3時間あってもいいから一本の映画として公開してくれよ、と思うところだが、あのテンポで3時間あったらそれはそれでとてもつらい。
 エンディングテーマはSEKAI NO OWARIによる楽曲でまあ特に良いとも悪いとも思わず。でもBGM(鷺巣詩郎)含め音楽はアニメ版の方が良かったと思います。ちなみに以前投稿したネタ。

 この映画の辛さを癒してくれたのは「ミニオンズ」でした。バナナ〜♪

*1:主人公ゴンたちは試験会場に赴く途中で老婆に命を助けるなら母親と恋人どっち?という問いかけをされ、母親を選んだ(本当は恋人だが母親ということ答えの方が老婆好みだろうという考え)受験者は不合格になる。正解は沈黙、どちらか選べない、というもの

*2:本当にあの映画はある種の性癖の持ち主をあぶり出す罪な映画だ。作品自体には罪はないのに

*3:林原めぐみ自体が嫌いだとかではないです。ただエヴァでもないのにあのぼそぼそナレーションは嫌い

*4:でも親に口減らしで軍隊に入れられた、みたいな余計な設定付き

誰の中にも棲む巨人 劇場版『進撃の巨人』 後編 〜自由の翼〜

 暑い!のでもう短めに。ここからしばらく、変則的なアニメ映画の感想が続きます。まずは邦画。実写版も公開される「進撃の巨人」後編。前編もかなり後になってからの観賞でしたが、今回ももう公開終わりそうという時期での感想です*1。「劇場版『進撃の巨人』 後編 〜自由の翼〜」観賞。

物語

 巨人となったエレンの力を得て、トロスト区の奪還に成功した駐屯兵団。しかしエレンが目覚めると彼は調査兵団に捕らわれていた。巨人の力を恐れエレンを殺してしまう案も出たが、結局調査兵団預かりということで片がつく。
 訓練兵を加え新たに編成された調査兵団が壁外調査に向かう。陣形を伴って進む調査兵団に巨人が襲い来る。それはこれまで見たこともない女型の巨人。その行動から女型の巨人もエレンのように誰かが巨人化した姿だと思われた。エレンを執拗に狙う女型の巨人。その正体は一体誰なのか?

 前編はTVシリーズ1話から13話までの総集編、今回は残り13話からラストまでの総集編となり、前編同様かなり丁寧な総集編。前編同様すでにTVシリーズを見ている人にはちょっと物足りないかも。
前編の感想はこちら。 

 この後編は新しく登場する「女型の巨人」は一体誰だ?と言うところが物語のメインであって、ちょっとした謎解きの部分もあるのだけれど、おそらく原作では直前まで読者はアニが女型の巨人であると分からなかったのに対して、アニメの方は視聴者のほとんどはアニが女型の巨人であると知っている、という前提のもと作られているような気がする。原作の方も結論を見てから読み直すときちんと何気ない描写が後に生きていたり、伏線が張ってある(このへんの伏線の貼り方はこの作者は抜群にうまい)のだけれど多分ほとんどの読者は直前まで「アニが女型の巨人である」とは思わなかったのではないだろうか。
 それに比べるとアニメの方は最初からかなりアニが怪しい、というのを張り巡らせている構成になっている。この辺はアニメとマンガという媒体の違いかな。アニメ(というか映像作品だと)どうしてもこれ見よがしに映す形になることが多いので。とまれ、この劇場版だけ観てもアニが女型の巨人である、という結論には多くの人が早めに気づくと思う。
 相変わらずアニメとしての動きはよく、前半ちょっとキャラクターのアップの時などに顔の輪郭線が不必要に太く違和感もあるところがあったけれど、作画も良好。特に前編はミカサやアニなど一部を覗いて訓練兵と駐屯兵団というそれほどプロフェッショナルな兵士ではない人たちの活躍が描かれたけれど、今回はみんな大好きリヴァイ兵長はじめ、巨人殺しのプロフェッショナル調査兵団の活躍が描かれていて、これまではどちらかと言えば巨人から逃げる描写が主だったけれど、今回は積極的に巨人を狩りに行く描写も多く、立体機動によるグルングルン動く躍動感も健在です。
 僕はこのTV版の「進撃の巨人」にはほぼ満足していて、それはその丁寧な総集編であるこの劇場版も同様なのだけれど、ほぼ唯一不満なところがある。それは前作の感想でも書いたけれど、原作よりも女性陣、とくにミカサが女性らしく、というか色っぽく描写されているところで、口紅を塗ったかのような唇、全体的に原作より丸みを帯びた体つき、そういうところ。原作の絵柄は作者が気力に画力が追いついていない部分もあるので一概には言えないけれど、ミカサについてはもっとアスリートちっくな描写だと思う。一応軍隊なわけだし。
 ミカサ以外にも原作より女性陣は女性らしさが強調されているように思えて、例えばハンジは原作では特に男性か女性かわからない描写だったのが(それで声優も少年役も多く務める朴璐美さんが起用されて更に分からなくなっていると思われた)、明らかに胸のある女性になっていたり。特に気になったのはアニがアルミンやエレンたちに女型の巨人であると判明するシーンでアニが顔を紅潮させながら笑うのだが、これは原作にない描写。アニもミカサも感情の起伏が乏しくいわゆるヒロインとしては動かしにくいのかもしれないが、個人的にそういう原作にない女性らしさをことさら強調する作りはあまり関心しないなあ。

 TVシリーズは女型の巨人が捕まり、結晶体となったアニが出現。今後の対策をエルヴィンが上層部に告げるところで終わり、エンディングの主題歌が終わったところで壁が崩れ中に大型巨人が!というところで終わったが、劇場版はそこにちょっとプラスされて壁の中の巨人を巡ってハンジとウォール教のニック司祭の問答が加わる。よりこの世界の謎を臭わせる形で終わる。エルヴィンの演説も凄みがあって良かったけれどもはや巨人化が特別でなく誰もが巨人になりうるという終末感が醸しだされていて良かったです。


 壁外調査へ向かうときにかかる歌も格好良いけど、個人的にはTVシリーズ後半のエンディングテーマcinema staffの「great escape」が好きだなあ。

 さて、僕個人的には「進撃の巨人」というコンテンツに対してはこのアニメ版だけで十分なんだけど実写版も公開されます。すでに観た人の間では「原作とは違うけど面白い」という感じの意見が殆どで概ね好評という感じだろうか。ただ、邦画は本当自分の目で観ないと信用出来ないというか特にこの作品は色々関係者の柵が多そうでもあるので一概に信用出来ない感が凄いです。特に「原作と違う部分は原作者公認、というか原作者が変えてくれ、と言ったんですよ!」という予防線が逆にみっともないというか、別にオリジナルのキャラが出てきたり、ストーリーが別物だったりは全然いいんですよ。原作と別物になるであろうことは最初から分かってるので。ただ芯になる部分がちゃんと残ってるかどうか。ただこれ以上は観ずには言えないので多分観ると思います。せめて前後編でなく一本の作品だったらなあ。3時間ぐらいあってもいいから一本に収めて欲しかった…

 原作の方はまだ続くし、劇場版もあの終わり方だと、新しいTVシリーズを予定していると思うのでそちらはぜひやって欲しいですね。

*1:それを言ったらすでにソフトの出た「アメリカン・スナイパー」と後編待ち遠しい「ハンガー・ゲームFINAL」の感想はどうなるんだという感じですが。なんとか書こうとは思います

楽園崩壊 チャイルド44/森に消えた子供たち

 トム・ハーディ熱狂ロードは続く!というわけで「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は日本でも大ヒットしてるみたいですね。ただ拡がりを見せるとそれと比例して頓珍漢な評論も出てくるもので、特にリンクはしないけど「イモータン・ジョーとフュリオサは昔恋愛関係にあって、しかもフュリオサの方がジョーを好きだった」とか「マックスとフュリオサが恋愛関係(この場合は肉体関係ということか)にならないのはマックスがインポテンツだから」とかどう観たらそういう解釈になるの?という評論*1なんかも出てきて「ブレイクするということはバカに見つかること」という有吉弘行の名言が思い出されます。
 さてトム・ハーディ。「マッドマックス」に合わせてか偶然か、同時期に主演作が何本か公開されている。今回はそんな中の一本。「チャイルド44 森に消えた子供たち」を観賞。

物語

 1953年ソ連。孤児として育ち戦争で英雄となったレオ・デミドフはソ連国家保安省の捜査員として国内のスパイ摘発を任としていた。スパイ容疑の獣医師ブロツキーを追ってとある農家へ行きブロツキーを捕らえるが、部下のワシーリーが見せしめとして農夫婦を銃殺してしまう。無意味な殺しに腹を立てワシーリーを殴るレオ。後には幼い姉妹が残された。
 レオの親友で部下でもあるアレクセイの息子が線路脇の森で遺体で発見。アレクセイは殺されたと主張するが、当時のソ連では猟奇殺人が起きるはずは無いと一蹴、事故死とされる。同じ頃レオの妻で教師であるライーサがブロツキーの死の前の証言でスパイであるという疑いが掛かる。レオはライーサをかばった結果左遷されてヴォルスクで民警となることに。
 ヴォルスクでもアレクセイの息子と似た遺体が見つかり、レオは連続殺人と確信。上司であるネステロフ将軍に協力を仰ぎモスクワで再び調査を始める。やがて似た事件が多数あり、どうやらロスコフがその中心であるようだ。レオたちは確信に迫っていくが…

 原作は2008年に発表されたトム・ロブ・スミスの同名小説。小説ではあるが実際の事件をモデルにしていて、後述するが「ロストフの吸血鬼」アンドレイ・チカチーロの事件を元にしている。ただ、僕は原作は読んでいないし、舞台が1953年となっていたので「ソ連の連続殺人といえばチカチーロだけど、時代が違うので別の知られていない事件でもあるのかな?」という感じで臨んだ。
 監督はスウェーデン出身のダニエル・エズピノーザという人でキャストもイギリスのトム・ハーディゲイリー・オールドマン、監督と同じスウェーデンジョエル・キナマンノオミ・ラパス、オーストラリアのジェイソン・クラーク、フランスのヴァンサン・カッセルと国際色豊か。ロシアを舞台にしたアメリカ映画だけど主要キャストにアメリカ人もロシア人もいないのは不思議。ソ連が舞台だけど英語の物語で、スラブ訛りぽい英語で会話が行われるのはちょっと変に思ったりもするけれど、アラブ訛りの英語劇だった「デビルズ・ダブル」よりは違和感は少なかったかな。

 実際にあった犯罪を元にしたサスペンス、しかも事件が起きた時の直接犯罪者と関係ない、捜査陣側の政治的な事情などのせいで捜査が遅れたり手詰まりになったりする、という点ではイーストウッドの「チェンジリング」、ポン・ジュノの「殺人の追憶」などを想起させる。ただこの映画のモデルになったチカチーロ事件は映画の舞台である1953年より大分後の1978年から1990年にかけて行われたもの。これをあえてスターリン時代の末期に持ってくることで意図的な事件の改変も行われている。
 まず、世代的にチカチーロの父親の経歴が犯人の経歴に流用されているようだ。犯人はドイツの捕虜になった過去から資本主義勢力のスパイと劇中でされたが、これはチカチーロの父親がドイツ軍に降伏し収容所で過ごしたことで裏切り者扱いされたこと等に拠る。ドイツ絡みといえば「ロストフの吸血鬼」というチカチーロのアダ名がこちらでは「ロストフの狼男」とされ、これはナチス・ドイツ第二次世界大戦末期にドイツの連合軍占領地に置いてゲリラ活動をするために組織した「ヴェアヴォルフ=狼男」を想起させる。一方でヴラドという犯人の名前はヴラド2世=ドラキュラを想起させることが容易だ。
 舞台を1953年のスターリン時代の末期にして、体制・捜査側の怠慢がスターリン独裁時代だからこそ、と誤解されるような部分はちょっと気になるところ。実際に事件が起きたのは完全にスターリン時代が終わり20年以上経った78年からソ連ももう終わろうかという90年にかけて。フルシチョフスターリン批判もとっくの昔になっていて、それでも「連続殺人は資本主義社会の弊害であり理想的な社会主義国家では起きない」という幻想が捜査を邪魔した。この「連続殺人は資本主義社会の弊害」というのは10分の1ぐらいは当たっていて、切り裂きジャック事件は産業革命で貧富の差が広がるロンドンで起きたし、マルクスはそういうイギリスの社会を想定して「資本論」や「共産党宣言」を執筆した。ただ、高度に発展した資本主義社会が次なる段階として社会主義になるというのが基本であり、ソ連の場合は残念ながらそれには当てはまらないといったところか。劇中ではスパイだけでなく同性愛者が罰せられるシーンなんかも登場している(これはチカチーロの代わりに捕まって勾留中に自殺した同性愛者をモデルにしていると思われる)。

 映画自体はミステリーと言うよりは社会派ヨリのサスペンスと言う感じで、後述するような実際のチカチーロ事件が簡略化されているので犯人を追い詰める要素も薄い。主人公レオと犯人ヴラドは同年代でともに孤児として育ち、しかし戦争で明暗が別れた対照的な人物として描かれているがそういう対比がある意味で「王子と乞食」的というか、一歩間違えばレオも同じ道を歩んだのではないか、という思いを抱かせる。トム・ハーディもマックスとはぜんぜん違う苦悩する演技で魅せてくれ、キャストも豪華ではあるが華やかな感じではない。とはいえ地味というとまた違うかな。

 チカチーロの事件は先の「連続殺人はソ連では起きない」といった捜査側の先入観や官僚的体質の他に、チカチーロの血液型と体液が一致しない体質だったこと、被害者が成人/未成年、少年/少女とバラバラだったこと(映画では少年のみ)、そして犯行現場が広範囲に渡り特定が難しかったことなどが逮捕が遅れた原因となった。
 僕がこの事件を知ったのは「羊たちの沈黙」やロバート・K・レスラーによる「FBI心理捜査官」などでサイコ・サスペンスブームが起きた時に発行されたデアゴスティーニの「マーダー・ケース・ブック」によってで。主に裁判時におけるチカチーロのルックスに衝撃を受けた。実際に犯行を行っていた時期はメガネにもじゃもじゃヘアの冴えないルックスだったのだが、裁判の時のスキンヘッドにギョロ目という強面のルックスに変貌し裁判での奇矯で印象を強く残した。映画は裁判まで行かない(というか捕まらず死んでしまう)ので一般的なチカチーロのイメージとは少し違うかも。
 ちなみに僕はこのチカチーロの事件をマイケル・キートン主演で映画化してほしいと常々思っていて、でもそのほとんどは裁判の時のイメージであるなあ。ちなみにジョエル・キナマンゲイリー・オールドマンはリメイク版「ロボコップ」で共演してますね。

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 下巻 (新潮文庫)

チャイルド44 下巻 (新潮文庫)

原作と…
子供たちは森に消えた (ハヤカワ文庫NF)

子供たちは森に消えた (ハヤカワ文庫NF)

その元になった事件のノンフィクション。
ロシア52人虐殺犯 チカチーロ [DVD]

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チカチーロ事件の映画化作品。
 結局のところ、どのような社会でもまったく犯罪が起きない社会などなく、完璧な楽園などは無い。楽園は必ず崩壊するのだ。そしていつも犠牲になるのは子どもや弱い者なのである。

*1:女性誌のHPでAV監督が女性に向けて書いているという体裁なんだから驚きます

理想の上司但し悪人

 日本の誇る国民的人気マンガ「ドラゴンボール」。その人気は未だにとどまるところを知らず、今年はついに新作のTVアニメシリーズが作られました。フジテレビ水曜7時は原作者鳥山明の「Dr.スランプ アラレちゃん」から始まって「ドラゴンボール」「同Z」「同GT」そしてリメイクである「ドクタースランプ」とおよそ20年の長きにわたって一人の作者の原作作品が放送され続けたことになります*1。新しいシリーズ「ドラゴンボール超」は「ドラゴンボールZ」をデジタル・リマスターした「ドラゴンボール改」に続いて映画作品である「ドラゴンボールZ神と神」の設定を受けて作られています。
 今年は映画の方でも新作「復活のF」が公開され、僕はそちらは見ていないんですが、敵役として宇宙の帝王フリーザが抜擢。TVなどでもフリーザを見る機会が増えました。
 で、フリーザが出てくると定期的にネットに上がってくるのが「フリーザ様は理想の上司」というネタです。後述しますが実際はフリーザ様が理想の上司などということはまずありえず、個人的にキャラとしての魅力や人気とは別に、こういうネタは正直あまり気持ちのよいものではなかったりします。
 そして今年は「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が公開されて、そこでの悪役イモータン・ジョーに対してやはり似たような「イモータン・ジョーこそ理想の指導者、上司」みたいな物がネット上で見受けられます。大部分はネタ以上のものではないのでしょうけど、個人的に嫌なのと、今後も定期的にネットに上がってげんなりさせられることが多いと思うので先に軽くこの手のネタにツッコミを入れておきたいと思います。たとえ野暮と言われようとも。

 アニメやマンガなどで悪の集団の首領、幹部を務める者は大きく2つのタイプに分けられます。簡単に行って秩序型と混沌型。組織が(個人の戦闘力重視の)実力主義であったり、首領の独裁であるとかは悪の組織である以上前提条件みたいなものなので、ほぼすべての組織に見受けられ、この点ではどこも似たり寄ったりです。秩序型・混沌型というのは首領の性格、支配の仕方とでもいうべきでしょうか。
 秩序型の悪役は自分の支配をきっちり守り、そのためにはなんでもするタイプです。逆に混沌型はその強力な力で部下を従えてはいるものの基本的には放任主義といえるでしょうか。「マッドマックス」で言うなら前者がイモータン・ジョーで後者がヒューマンガス。
 イモータン・ジョーは水という人が生きる上でもっともだいじなものの一つを支配することでシタデルに権力を築きました。シタデルはどうやらジョーが開拓しそのもとに飢えた民衆が集まってきて、それをジョーが支配するという形のようですが基本的にジョーとその一族、幹部以外は自由はありません。兵士であるウォーボーイズは靖国神社もどきの狂信的信仰で支配し、組織の歯車、それも簡単に交換可能なものとしてしか見ていないでしょう。ジョーがウォーボーイズを捨て駒としか見ていないのはニュークスに対する使い捨て(おだてて置きながら失敗すると「マヌケめ」と切り捨て)からもわかります。個人的な感想ですがおそらくジョーの理想とする社会は自分たちの身内や一部の幹部以外は完全にジョーの支配社会を機能させるための道具として生きることです。一人一機能のみを能力としそこから逸脱することを許さない。人間でありながら真社会性の昆虫のような社会だと思われます。

 一方ヒューマンガスは同じ「マッドマックス」というシリーズの悪役でもかなりイモータン・ジョーとは違っています。もちろん時代・組織の規模が違うのでいずれはジョーのようになった可能性も有りますが。ヒューマンガスは荒野の荒くれ者たちを自分の支配下に置いていますが、その支配はかなり緩いように思えます。彼らは人の命と言うものに対して徹底的に扱いが軽いですが、自由です。人も食料も不自由な世界で秩序だった社会を形成しようとすれば面白半分に殺すとかは許されることではありません。ヒューマンガスがいっときのものではなく、本当に荒野に支配体制を築こうと思ったらそういう部下の暴走を抑えなければなりませんが、その辺は自分が演説してる時にウェズが暴走したのを抑えたものぐらいでした。基本部下のやることは放任主義。荒くれ者が腕一本で好き放題できる。ある意味では真に自由な社会化もしれません。ただし弱いものには一切情けがないですが。
 ウォーボーイズはおそらく命令されなければ勝手に暴れることは許されていないと思います。映画冒頭でマックスが捕まった時も殺されずに済んだのは彼らにそんな権限はなかったからかもしれません。シタデルは管理国家であり、文字通りディストピアですが、ヒューマンガス軍団は無秩序な荒くれものの集団を一時的にヒューマンガスが抑えているという形なのかもしれません。
 フリーザは宇宙の地上げ屋で気に入った星の住民を滅ぼして売り飛ばしているということですがその力は界王でさえ力が及ばないほどでした。ここで考えてみてください。フリーザ慇懃無礼な態度、個性的な部下を多く抱えることから理想の上司扱いされることが多いですが、やはり気に入らないとすぐ殺すタイプですね。フリーザは秩序型でしょう。


 ドラゴンボールにおける混沌型悪役は最初のピッコロ大魔王です。彼はその個人の武力のみをもって世界を制し(かけ)ましたが、その公約はある意味完璧でした。法も秩序も警察もいらない世界。悪人が好きなことをし放題な世界です。そしてピッコロ大魔王の権力は彼自身の武力に拠っているため挑んでくるものはウエルカム。腕に自信のある者にとってはやり放題なわけでこれほど理想的な世界もないかもしれませんが、だからといって彼が理想の上司とはいえないでしょう。
北斗の拳」にも様々なタイプの悪役が登場しますが、理想の上司などは居るでしょうか?ラオウはもしかしたらそういう文脈で語れるキャラかもしれませんが、彼自身はそれなりに理想を持っていますが何しろ彼もまた個人の武力を最終的なたのみにしている人です、決定的に弱い人の気持ちが分かりません。また拳王軍はラオウを中心とした円心から離れれば離れるほど部下の質が落ちます。というか、拳王親衛隊とか初期はラオウに近くてもろくでもない人間しかいなかったよ…
 要するに貴方がそれらの作品世界に生まれ変わったとして、もし彼らを理想の上司・指導者として仰ぐのであれば絶えず忠誠心を示し、業績を発揮シなければなりません。その仕事の多くは星を滅ぼしたり、村を焼き払ったりすることです。そして裏切ろうとしたり、あるいはその傾向が見受けられただけで簡単に殺されてしまいます。
 例えば戦国時代を舞台にしたゲームなどではたいていプレイヤーは戦国武将となって領国経営をしたり、指揮官として戦争を主導します。しかし、実際に人が戦国時代に生まれたとしたらおそらく殆どの人は百姓になります。悪役を理想の上司・指導者というような人はその時、自分だけは支配階級やそれに準じる階級に落ち着いて最初から人を支配できる立場にいると思い込んでいるのでしょう。しかしほとんどは名もないウォーボーイズか定期的にイモータン・ジョーに水を分け与えてもらう下層民。その時でも貴方はジョーが理想の上司などと言えますか?
 それでは本当に理想の悪役はいないのでしょうか?「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」の破壊大帝メガトロンがある程度理想の上司かもしれません。でも、それは貴方がトランスフォーマー、しかもデストロンに生まれついた場合のみです。人間やサイバトロンに生まれたら彼の支配は断固として阻止しないとやはり奴隷として生かされるか全滅される運命が待っているでしょう。
 悪の首領というのは多くの作品で独裁者であり、その個人の力を正当性として組織に君臨している事が多いです。独裁者は物事を可及的速やかに決めることができるので多くの場合物語を動かします。そのために魅力に溢れています。一方主人公側と言うのは多くの場合、悪を受けての行動が多いですし、政治的な場合民主的な組織であることが多く、決断力に欠け、物語に拠っては上層部が腐敗している、などということも有ります。悪役は世界の根本的な改変を目論んでいるためドメスティックな行動が出来ますが、主人公は行動が限られ、眼の前の人を救いだすので精一杯だったリします。
 物語の構造上多くの場合、悪役が魅力的に見えることは珍しくありません。ただ肝に銘じてい欲しいのは魅力的であることは、必ずしも善ではないのです。多くの人がキャラクターの魅力とその行為をごちゃ混ぜにして「〇〇様は理想の上司!」などと言ってしまうのかと思います。現実でも独裁者の多くはカリスマ性があります。さすがに実質世襲制になっていて2世3世ともなるとそのカリスマ性は減りますが、例えば個人的にイモータン・ジョーの理想とする社会なんて北朝鮮とかなり重なると思いますけどね(そもそもウォーボーイズを縛る思想のモデルが靖国神社や特攻隊であったことを思いだそう)。そんな相手を上司に迎えても、貴方自身がよほど実力があって倫理観がぶっ飛んでいない限り、大体においてすぐ死にますよ。
 それでも、理想の悪役上司がまったくいないわけでもないので二人ほど上げて終わりたいと思います。一人は横山光輝「バビル2世」のヨミ様。彼はバビル1世の超能力を隔世遺伝で受け継いだ子孫の一人でどういう理由かバビル2世としては認められませんでしたが、そのバビル2世とほぼ同等の超能力をもちます。最初にバビル2世とヨミ様が出会った時、ヨミ様はすでに絶大な力を手に入れていました。何カ国かを支配地とししていますがちゃんと善政を敷いていて部下や国民には慕われています。またバビル2世が攻めてくるとまず自身が前線に立ちます。この人は超能力によるエネルギーの消耗が激しく(その辺でバビル2世に劣る)回復のためすぐ寝ますが、その間は部下を信頼して任せています。部下も信頼に値する優秀な人材も多いのですが、何しろバビル2世が強いので対抗できる手段がヨミ様しかおらず、すぐに「ヨミ様を起こせ」となってしまいます。それで部下を怒ることもなく自ら立ち向かうのです。とにかく勤勉な人ですね。もしもバビル2世がいなければ、あるいはすんなり彼が2世として認められていれば世界はヨミ様の支配下になっていたかもしれません。そしてヨミ様に限ってはその支配は平和でかつ慈悲に溢れたものになるような気がしてなりません。惜しい人を亡くした…

 後はぐっと規模は落ちますが、くぼたまこと天体戦士サンレッド」のフロシャイム川崎支部のヴァンプ将軍ですかね。フロシャイム自体は実は劇中でも結構ゴロツキ的怪人、ガラが悪いのも多かったりするのですが(劇中ではいつもサンレッドにあっさりやられているのですが、あの世界ではサンレッドが強すぎるのであって怪人としてはフロシャイム構成員は皆それなりに強かったりするのです)、そんな彼らをまるでおふくろさんのように暖かく躾けています。幾つかのエピソードでは実は本気出したら強いこともほのめかされていたりするのですが、やはりヴァンプ様の魅力はその主夫ぶり。一家に一人欲しいです。

 他の悪の組織は就職したくないですが、割りとヨミ様の部下やフロシャイムには入りたかったりしますね。

 というわけで悪党は所詮悪党。その倫理観からおかしいので到底理想の上司などにはなりようもないのです。

天体戦士サンレッド 第1巻 [DVD]

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*1:その後同枠は「ONE PIECE」が放送され、「ONE PIECE」が放映時間移動によってアニメ枠としては消滅

人を、神を、そして機械を超えて アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン


 お待たせしました。「マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU」、フェイズ2もクライマックス!「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」です。初日に観てすっかり感想遅れてしまったけれど、それはちょっと感情の持って行き場が難しかったという部分もあったのです。もちろん面白かったけれど、前作のようにヒーローが集まっただけではもう喜べないというか、シリーズとしてではなく1本の単独映画としてみた場合には評価が難しそうとか色々自分の中で錯綜して、単純にすごかった!ヤッター!とならなかったというか。それでも十分に楽しめた作品ではあるでしょう。MCU11本目!「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」を観賞。

物語

 ヒドラが内部に深く侵食していたことが判明しS.H.I.E.L.D.(シールド)が崩壊して後、アベンジャーズは東欧の小国ソコヴィアにおいてバロン・ストラッカーの率いるヒドラ支部を攻撃する。そこにはかつてNYを攻撃したロキの槍が。ヒドラはここでロキの槍やチタウリの残骸から超人を作る計画を企てていたのだ。そのヒドラの産んだ超人の一人、ワンダの力によってアベンジャーズが全滅するヴィジョンを見たトニーは、槍の奪還後、その力を使ってロボットたち<アイアンレギオン>が自分たちの代わりに世界の平和を守る「ウルトロン計画」を実行する。しかしウルトロンはジャーヴィスを排除し人類こそ諸悪の元凶と判断するのだった…
 関係者が集まってパーティーを楽しんいたその時、突如としてウルトロンが現れ人類の殲滅を宣言。ロキの槍を持って逃亡する。勝手にウルトロン計画を進めていたトニーに不信感が集まる中、ウルトロンの目的地を予測してアフリカへ。ウルトロンもワンダとピエトロのマキシモフ双子と手を組む。ワンダのしわざで暴走したハルクとアイアンマンが戦い世界にアベンジャーズ不信が広がる中、ウルトロンは恐ろしい計画を企んでいた。アベンジャーズはウルトロンを止めることができるのか?

 監督・脚本は前作に引き続きジョス・ウェドン。シリーズ的には「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー(以下CA/WS」から直接の続編として続いている。あの作品でシールドが崩壊し、エンド・クレジット後のおまけでバロン・ストラッカーとツインズが登場。ヒドラが関わってくる続編を想起させた。ところが本作ではいきなりそのストラッカーのヒドラと対決。「CA/WS」からの引きはあっという間に終わる。この間どういう経緯で再びアベンジャーズが集まり、ヒドラ支部を見つけ攻撃に至ったのか、という説明はなし。「アイアンマン3」ですべてのアーマーを破壊し引退したはずのトニー・スタークは何の説明も心理的葛藤もなく現場復帰している(ただし胸のリアクターはちゃんと取り外してある)。
 もしかしたら同じMCUの物語であるTVシリーズの「エージェント・オブ・シールド*1」や、前日譚コミックスでその辺のことが言及されていたりするのかもしれないが、映画だけ観た身にはちょっと不親切か。元々このMCUはそれぞれの作品を作っているときはあんまり他のタイトルとの整合性は気にせず制作していて後から整合性を考えていくそうなのだけれど(それでも根幹となる物語や設定は監督が違ってもきちんとかたまっているとは思う)、ちょっとこの始まり方はあんまりフェイズ2の各作品を踏まえていないような気もして残念。とはいえその辺までじっくり描いてしまうと上映時間が+1時間ぐらい必要な気もするので仕方ないとは思うけれど。
 本作は一見単純なようでかなり複雑な設定の物語である。今回は宇宙やアスガルドといった要素は直接関わってこないがそれでも原因となるロキの槍(厳密には槍に備え付けてある青い宝石のような部分)がインフィニティストーンの一つであることが判明し、来るべきサノスとの「インフィニティ・ウォー」への布石となっているし、「CA/WS」ほど複雑ではないものの政治的な要素もある(これはキャプテン・アメリカの単独主演3作目「シビル・ウォー」へと続く)。既存のキャラ勢ぞろい一方で新キャラも多く登場し(しかも今回限りではない)、物語は次へと続く形をとる。
 だから一本の単独映画として観た場合はもちろん、「アベンジャーズ」の続編としてみた場合でも、かなり歪でその限りにおいて本作を失敗作とみなすこともできる。僕が1作目の時のように単純に喝采をあげれなかった理由もその辺りにあり、かなり頭をつかう作品だと思う。
 もっとウルトロンの誕生する経緯や目的を単純にして分かりやすくしても良かったのではないかとも思うが、その辺はMCUのなかでの本作の位置づけの難しさなのかなあ、と思う。
 ただ、二回目を観て、本作は何度も繰り返し見ることや、あるいは何回にも分けて見ることを前提に作られているような印象を持った。劇場観賞よりも自宅でのソフト観賞に向いている。そんな作品。この辺はジョス・ウェドンがTVシリーズを多く手がけているところからきているのかもしれない。もちろん多くあるアクションシーンやVFXシーンは映画ならではのヴィジュアルと迫力でこれは劇場鑑賞しないのはもったいない!と思わせるものではあるのだが。

アイアンマン

 トニー・スタークは「アイアンマン3」で全部のアーマーを廃棄したはずのなのだが、特に何の説明もなく再びアーマーを装着。その辺の経緯や葛藤は特になし。ただ「アベンジャーズ」では胸のアークリアクターのお陰でロキに(というかロキの槍)洗脳されずにすんだが、今回はワンダ=スカーレットウィッチのマインド攻撃を食らってしまう(逆に前回操られてしまったホークアイは免疫ができた、というか事前の察知によって回避)滅びのヴィジョンを見てしまう。お陰でウルトロン計画を進めてしまい、大変なことに。とは言え宣伝で言うほど「アイアンマンが原因」とシリアスでもなく、いつもの飄々した様子で余裕を見せる。ただ、女性絡みの方はペッパーとの関係が確立されて他の女性に手を出すわけにも行かずおとなしめ。
 今回は2つの通常アーマーの他に対ハルク専用のアーマー「ハルクバスター=ヴェロニカ」が登場。これは衛星上から発射された外部装着のものを通常のアーマーの上から装着。ハルクを上回る巨体となりハルクの抑止で活躍する。このヴェロニカにはブルース・バナー博士自身も制作に参加していると思われ、バナー博士が常に自分が暴走してしまったら、ということを考えているのが分かる。ちなみにヴェロニカという名前は「インクレディブル・ハルク」のヒロインでもあったベティ(リブ・タイラー)から、アメリカの青春コミック「アーチー」の主人公アーチーを巡るガールフレンド、ベティとヴェロニカから引用だそうです。

キャプテン・アメリカ

 前回「CA/WS」でシールドが崩壊し、独自の道を歩んだはずだがあんまりその辺は描かれない。アベンジャーズのリーダー、精神的支柱として活躍する。トニーとは性格、育った時代の違いもあって認め合いつつもあんまり仲はよくないがそれでも「アベンジャーズ」での険悪な感じだった時に比べると口論をしていてもちょっと漫才ぽい感じに。
 キャップのデザインはアイアンマンほどでなくても変遷はしていて今回はおそらくスターク提供のものだと思われるアベンジャーズ仕様。「CA/WS」前半のステルスタイプのものほどシックでもないが「アベンジャーズ」のもの(コールソンデザイン)ほどシンボルすぎず一番バランスがとれた感じ。それでももうちょっと明るくてもと良かったかな。スーパーマンキャプテン・アメリカ星条旗カラーはシンボルとしての意味合いが強いので。マスクはステルスタイプに続き耳が露出したタイプ。しょうがないけど身体はコスチューム着用なのに顔はマスクを外して素顔って場面が多いのはちょっと残念。

ソー

 アスガルドから来た暴れん坊。今回は直接アスガルドがらみの事件ではないためアクション方面では活躍するものの、精神的な葛藤は少ない。元々神様なので地球人よりおおらかな人でもある。ただ、トニーのパーティーでアベンジャーズメンバーによる「ムジョルニア持ち上げ大会」で他の人物が何やっても持ちあげられないのにキャップが手にした時ほんのちょっと動いた時の「ビクッ」とした態度が中々人間性を感じられて愉快(後述するが楽しいシーンに見せかけて実は伏線となる重要なシーンである)。ムジョルニアの力もあって意外と単独行動で縦横無尽に地球を飛び回る。

ハルク

 本作の恋愛担当。「アベンジャーズ」クライマックスではハルクの力を完全に制御したかにみえたが、常にそのようにうまく行くとは限らないようで、変身解除にはナターシャの力が必要だし、バナー博士に戻った後は深い嫌悪感に襲われる模様。
 今回特に深い説明はなく、ブルース・バナーとナターシャは恋仲となっている(といっても互いに気持ちは通じているけど曖昧なままにしている、という感じ)があれである。ハルクといえば一応「インクレディブル・ハルク」もMCUの一作で、そこではベティという恋人がバナーの帰りを待っているはずなのである。もしかしたら絶妙になかったことになっているのかもしれないけれどあの作品は続編への要素も残していて、特にハルクの血液を頭に浴びてボコボコ頭が変化していたMr.ブルーはコミックの方ではリーダーというヴィランとなる人で、明らかに超人化しているはずなのでなんとかMCUに再登場させてほしい。ハルク自身はバナーの時は暗いし、かといってハルクになると徹底的に暴れまわるだけなのでそのビジュアルもあって実写単独主演映画ではどうにも成功という感じではないし、僕自身ハルクは他のヒーローと一緒に登場してその対比で輝くヒーローという気がするのだけれど。「インクレディブル・ハルク」で残された要素もあるしなんといってもバナー役マーク・ラファロが素晴らしいので、なんとかもう一本単独主演かそれに近いハルク映画を作って欲しいですね。「インクレディブル・ハルク」からはハルクだけでなく役者そう取っ替えでも構わないので。
 本作の最後でまた姿を消すハルクであるが、続編ではどうなるのか?その辺も含めて次も楽しみ。

ホークアイ

 「アベンジャーズ」でロキに操られたため最初は敵であったが、今回は最初から頼もしい味方として登場。それだけでなく唯一の妻子持ちであったことも判明し、チーム随一の常人としての面目躍如。肉体的には怪我も負うけれど精神的には一番タフなところを見せて、そして予告編などでも伺える若きヒーローのを導く先輩として活躍する。

ブラック・ウィドー

 登場するたび髪型が違うナターシャももMCUではお馴染み。そして今回もちょっとずつ過去が判明。ソ連時代のスパイとして教育され、そのために不妊手術を受けていたことも分かる。あくまでナターシャ自身のコトであって全女性に当てはめていっているわけではないんだろうけど、そのことで自分を怪物扱いするのはちょっと議論が起きるところ。ところでナターシャのMCUにおける生年は「CA/WS」でアーニム・ゾラの述べるところによると1984年。これは演じるスカーレット・ヨハンソンと同じなのだけれど、これだとソ連崩壊時点で7歳とかそのくらいになって劇中の回想やKGBにいたという経歴とは矛盾する。それで、実際はもっと年配だけど何らかの超人手術を受けてウィンター・ソルジャー同様、冷戦時は定期的にコールドスリープ処理されていたとか、あるいは歳を取りにくいように処置されたとかが考えられる。コミックではたしかWW2時に少女で、その時にキャップやウルヴァリンと出会ってたエピソードがあったような。

クイックシルバーとスカーレットウィッチ

 ピエトロとワンダのマキシモフ双子。この二人は「X-MEN」の宿敵マグニートーの子供で、デビューはマグニートーの組織した「ブラザーフッド・オブ・イビル・ミュータンツ」の一員としてヴィランとしてデビュー。その後アベンジャーズに参加したりX-MENに参加したり。スカーレットウィッチはアベンジャーズのキャラクターと言うイメージが強いがクイックシルバーX-MENのイメージも強い。それで権利関係がどうなっているのかクイックシルバー20世紀FOXの「X-MEN フューチャー&パスト」にも登場した。今回は「GODZILLA」では夫婦だったアーロン・テイラー・ジョンソンとエリザベス・オルセンが双子として登場。ジョンソンはもうかつてキック・アスだったころの面影は薄く、頼りがいのある美青年として最初から強い。一方精神を操るワザを持ちながら、自身が精神的にも危うい感じのワンダは本作によって救われる人でもある。
 マグニートーの子供という設定は「X-MEN」でも登場しなかったが、マグニートー自体(というかミュータントという設定が)が登場しない本作でももちろんなし。ただコミックでも最初から親子と判明したわけではないし、さらに最近は「実は親子じゃなかった」という展開にもなったりしているそうで。当然本作では生まれながらのミュータントではなくスターク社の兵器で家族を失った双子がヒドラの人体実験で超能力を得たという設定。劇中の描写だとヒドラのソコヴィア支部は現地の住民からそこそこ支持されていたような感じがするなあ(ヒドラである、と明らかにしていたかはともかく)。
 本作ではピエトロが「ちょっとだけワンダより早く生まれた」と兄アピールしていたのだが、長年の印象ではワンダが姉でピエトロが弟というイメージ。元々英語では単に「ブラザー」とか「シスター」とかいうことが多く、映画など観ていても明らかに年齢差がある場合でないと兄弟姉妹のどの関係なのか分からないことも多々あるのだが(「悪魔のいけにえ」のソーヤー一家の家族関係はそれで悩まされた)、この双子のどっちが先か、というのも長いコミックの中でその時々で変わっていったりしていて、とりあえず現在はピエトロの方が兄、という感じになっているそう。でもその設定を知ってなおワンダが姉、というメージは強いけれど。
 クイックシルバーの音速で動く、という能力のイメージは単に他のキャラからみて目にも留まらぬスピードというだけになっていて、超スローで時間が止まっているように感じる中、悠然と動くクイックシルバーという「X-MEN DoFP」に比べるとちょっと映像的な楽しさは薄い。

ヴィジョンとジャーヴィス

 ジャーヴィスは「アイアンマン」の頃から不器用アームとともにトニーを支える人工知能。その落ち着いた喋りと、でもどことなくあたたかみのある態度で声だけながら密かな人気を博してきた。コミックでは元々はトニーに仕える人間の執事で映画化する際に、おそらく「バットマン」のブルース・ウェインに使える執事アルフレッドと設定がかぶってしまうことを案じてサポートする人工知能という設定に変更されていた。今回はより高度な人工知能であるウルトロンに駆逐されてしまったかのように思われたが、ウルトロンが自分のために用意したボディに宿ることで新たにヴィジョンとして生まれ変わった。これまでポール・ベタニーがアイアンマンの出てくる作品には欠かさず声だけとはいえ出演していたが、今回は晴れて役者として姿を見せる。
 当初は「ロキに殺されたコールソンがヴィジョンとして復活する」などの噂も流れ(コールソン役のクラーク・グレッグの顔をしたヴィジョンのトルソーなども出回っていたような気がする)ていたが、実際はベタニーであった。先述したジャーヴィスの設定もあって、当然ヴィジョンも原作ではジャーヴィスとは関係なく、本作でもジャーヴィスの要素を受け継ぎつつ新しい別の存在となっている。ウルトロンが作り上げたというのは映画にも共通する要素。アンドロイドであるが、まだ日本のロボットアニメなどの影響がなかった時期の誕生なので同じ人工物系でもウルトロンやアイアンマンのアーマーとはかなり趣が異なる。
 真っ赤の顔に緑の身体、M字に剃りの入った額などちょっと独特すぎる容姿だが、デザインは結構コミックに忠実で、少し前のアメコミの何でもありなデザインを感じさせる。彼が(ウルトロンの要望で作られたことやトニーに対する不信感もあって)最初は受け入れられないが、彼が何事も無くムジョルニアを手にとってソーに渡すシーンで「あ、こいついいやつなんだな」と一発で分かるシーンは見事。前述の「ムジョルニア持ち上げ大会」が単なる箸休めでなく見事に機能した。
 本作でもちょっと匂わせている気もするんだけれど、コミックではヴィジョンはワンダと恋仲になるので続編ではそういう部分も期待したい。

ウルトロン

 今回の悪役。トニーが計画したアイアンマンのドローン版「アイアンレギオン」を統率するものとしてロキの槍(セプター)のちからを使って誕生した。しかし誕生してすぐに「平和のためには人類は邪魔」となって反逆。一応主となるボディがあるが、それ意外にも全部のボディ=ドローンが同時にウルトロンである。原作ではトニーではなく、この後の作品「アントマン」に登場するハンク・ピム博士(初代アントマン)が作った人工知能だが、他は概ね原作を踏襲しているか。
 メインとなるボディはかなり大柄でマッチョだが、一番最初のボロボロのやつが一番凄みがある。性格的には人工知能といってもかなりお茶目で人間的。これは創造主であるトニーの性格を受け継いでいる部分もあるそうだ。演じているのはジェームズ・スペイダーで声だけでなくモーションキャプチャーも担当している。スペイダーはなんとなく「性格の悪い冷たいイケメン」というイメージがあるのだが、ちょっと見ない間に気のいいオヤジ的なルックスになっていて少しびっくり。ただ今はおっさんになったかつてのイケメンはウルトロンの人間的だが同時に機械的に冷たい、という矛盾しながら同時に存在する内面をうまく表現していたように思う。

その他

 ニック・フューリーはゲスト出演的な形で中盤に登場。マリア・ヒルも全編にわたってアベンジャーズをサポート。他にヘイムダルがソーの、ペギー・カーターがキャップの、ワンダによって見せられた幻想の中に登場する。ソーからはステラン・スカルスガルドのセルヴィグ教授も再び登場。ソーを予言を得るための伝説の泉へと導く。しかしセルヴィグ博士本来の専門分野がいまいちわからない。
 ファルコンはトニーのパーティで登場し、ラストに新生アベンジャーズのメンバーとして参加するがメインでの出番はなし。一方ウォーマシーンのローディは本編クライマックスにアベンジャーズの援軍として登場しアイアンマンと気のあったタッグを見せる。
 
 これまでMCUに登場した女性キャラクターでは、「マイティ・ソー」に出てきた戦女神シフ(ジェイミー・アレキサンダー)が一番好きだったのだが、その後「エージェント・オブ・シールド」を見てそこで出てくるキャラ、スカイ(クロエ・ベネット)がトップを奪うかも、という感じだったのだが、ここでもう一人素晴らしい女性キャラクターが登場。その名はヘレン・チョ博士。傷を負ったホークアイを治療し、ソーが参加するならとパーティーにも参加したミーハーなところもあるが、そのまま二次会にも参加しウルトロンの宣戦布告に立ち会い、その後の対策会議にも出た重要なキャラクターである。彼女がヴィジョンの元となったボディをウルトロンの命令で(ワンダによってマインドコントロールされていた)、作りあげた。
 演じたのはクラウディア・キムという人で調べたところ、これはハリウッドで活動する際の英語名で「キム・ソヒョン」で知られている韓国の女優/モデルらしい。この「エイジ・オブ・ウルトロン」が映画本格出演らしくて(主戦場やTVドラマだったようだ)、僕もこれで初めて知ったが、美しさと知的さと芯の強さを感じさせる人で一目惚れしてしまったです。「ウルヴァリン:SAMURAI」のタオ、「X-MEN DoFP」のファン・ビンビン(彼女は「アイアンマン3」の中国版にもでていたそうだけど)に続くアジア系マーベル女優として頑張って欲しい*2。チョ博士というキャラクター自体は多分映画オリジナルでコミックスではマーベルユニバースでも有数の天才少年、アマデウス・チョがモデルなのかなと思うが詳しいことは不明。でも亡くなったわけではないのでヘレン・チョ博士には今後も登場して欲しいです。
 そしてスタン・リー御大ももちろん登場。同じ年だったもう一人のリー、クリストファー・リーが今年亡くなってしまったのでスタン・リーには元気に長生きしてほしいと心から願います。EXCELCIOR!

 今回は初回をIMAX3D、二回目を吹替3Dで観賞。楽しみにしてた作品でIMAX3Dがある場合は、やっぱり初回はIMAX3Dで!と思って選択することが多いんだけど、正直こういう台詞の多い作品は2回め以降に普通のスクリーンで2Dで観た時のほうが楽しめる気がするなあ。「ゼロ・グラビティ」や「マッドマックス怒りのデス・ロード」みたいなセリフの少ない作品はあっていると思うけれど、セリフの応酬があるような作品には不向きか。僕の場合日常生活からメガネ装着者なので3Dはメガネ・オン・メガネになってしまうのも辛いところ。通常の3Dはクリップ式のものを購入してるのでいいんだけれどIMAXは特に重いしなあ。疲れてクビを傾けるととたんに画像がブレるのもきつい。後は3Dって(特にIMAXは)最初の紹介映像や3D用の予告編は3D効果がギンギンに効いてて凄い!って思うんだけど本編始まるとそれほど気にならなくなるんだよね。今回は「ジュラシック・ワールド」の予告編が流れてこの予告編は3D効果が凄かったけれど本編はそれほどでもない気がする。やはりIMAXは2Dが一番。でなきゃせめてIMAX3Dなら吹替を優先して欲しいですね。
 吹替は基本的に「アベンジャーズ」からそのまま。ニック・フューリーの竹中直人もナターシャの米倉涼子ホークアイ宮迫博之も継続。ちょっとだけの出番でもあるファルコンもちゃんと溝端淳平が演じています。タレント吹替といってもこの辺は(多少の違和感はあれど)慣れの問題もあるし宣伝のために一作だけと言うよりはきちんと継続して出演してくれるなら文句はありません。ただ吹替のクレジットでトニー・スターク=藤原啓治やキャップ=中村悠一などを差し置いて真っ先にこの4人が出てくるのはちょっと感心しませんな。

 前作は「日本よ、これが映画だ」のキャッチフレーズが議論を呼んだけれども、本作はディズニーに移りさらに日本での宣伝はおかしなことに。とはいえ個人的には「愛」を前面に出すこと自体は間違いではないので別に良い。「世界を滅ぼすのはアイアンマン」というコピーも大げさだがまあ良い。それよりも気になるのは「ハルクをなるべく出すな」という方針である。

 この映画で「愛」を打ち出すならむしろ主役はハルクではないか?確かにハルクは緑色の半裸の巨人というルックスで一般人受けはしにくいのかもしれない。でもナターシャと互いの疵を舐め合い、理解し合い、しかし最後は別れることを願ったハルクはある意味今回の主役だ(もちろん普通に主役の一人なのだが葛藤と意味において「愛」を打ち出すのであれば)。それなのに「宣伝で出すな」とはどういうことか?
 以前「ウォッチメン」のときでも日本での宣伝ではDr.マンハッタンをなるべく出さない宣伝がうたれたが、こういう肌の色が特殊なキャラを出すと日本人は馬鹿にするとでも思っているのだろうか?こういう宣伝はある種変則的な人種差別だと思いますがね。 

 映画は現在のアベンジャーズの面々が一応それぞれ決着を付け、新生シールドの誕生と新しい戦士たちによる新しいアベンジャーズ(キャップ、ウィドーの他はウォーマシーン、ファルコン、スッカーレットウィッチ、ヴィジョン)の誕生をもって終わります。そして恒例のエンドクレジット後のお楽しみはついにガントレットを用意したサノスが…
 気になるのはソーがセリフの中で「続けざまに4つのインフィニティストーンが現れた」と言っていることですね。現在確認されているインフィニティストーンは4つ。4次元キューブ、エーテル、オーブ、そしてロキの槍(セプター)。しかしオーブを巡る物語「ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー」は基本的に地球の枠外で繰り広げられました。時期的には「マイティー・ソー/ダーク・ワールド」の後の物語ですが、「GotG」で起きた事件がソーに(というかアスガルドに)認識されているということに。ソーの口から「GotG」の顛末が地球人に伝えられたかどうかは分かりませんが。
 いちおうここでMCUフェイズ2は終わり…とはならず、この後に「アントマン」というちょっと(文字通り)小粒なヒーローが控えています。この「アントマン」をもってフェイズ2が終了し、最終ラウンドであるフェイズ3が始まるようです。とりあえず「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」「マイティ・ソーラグナロック」「ドクター・ストレンジ」「ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー2」などそうそうたるタイトルが待機しています。本作で言及された地名「ワカンダ」もブラックパンサーというヒーローが君主として治める国家で「ブラックパンサー」というタイトルも用意されています。
 おそらく2008年の「アイアンマン」からちょうど10年となる2018年に「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」前後編を持ってMCU一旦終了という形になるのではないでしょうか。

 流れとしては「シビル・ウォー」でヒーロー同士の対決という地球の物語がクライマックスを迎え、その後インフィニティストーンをと宇宙の命運を巡るサノスとの戦いへつながる流れか。
 何度か書いたように本作自体はちょっと歪でかつ橋渡し的な作品でもあるので人を選ぶかもしれません。でもちょっとでも興味がある方は観ておいて損はないと思います。

*1:自分は現在地上波で放送中のもので追っかけ中

*2:一応「AoS」スカイ役のクロエ・ベネットもアジア系

時空を越える量産型守護神! ターミネーター:新起動/ジェニシス

歴代ジョン・コナーたちの波瀾万丈な人生

初代ジョン・コナー。その美貌と程よい悪ガキぶりで全世界を狂喜させるも、その後は人種差別主義者だったり、チンピラだったりで実際に逮捕も。
2代目ジョン・コナー。燃え尽き症候群で容姿が荒れるが、審判の日を再び阻止するべく奔走。しかし目的は果たせずショックで真っ黄色の変態殺人鬼<イエローバスタード>になった。
3代目ジョン・コナー。暗黒の騎士だったりドラゴンスレイヤーだったりガン=カタマスターだったり数々の英雄仕事の一環として片手間でマシーン軍団とも戦い、人類をいつものように救う。その後も救世主仕事は続き最近はファラオの支配するエジプトからヘブライ人の集団脱走を指揮し、成功に導いている。
4代目ジョン・コナー。CIAの職員として活躍。テロリストとしてホワイトハウスを占領したこともあるプロフェッショナル。類人猿との和平交渉を成功させた功績でコナーに抜擢。玄人好みではある。一番地味。

 というわけで「ターミネーター」の新作。僕はこのシリーズは特に熱狂的ファンというほどではない(劇場で観たのはたしか4が初めて)。「4」を観た時もどちらかと言うとシリーズが楽しみと言うよりクリスチャン・ベール主演だから、という理由が大きかった気がする。ただシリーズの歴史的価値は十分に認識しているし、特に「ターミネーター2」は公開当時すでに映画鑑賞を趣味にしていたし、周りも盛り上がっていたにも関わらず劇場で観賞しなかったことは、悔いても悔いたりない。
 政治家に転身する前のアーノルド・シュワルツェネッガーの最後の主演作が「ターミネーター3」だったのだが、「4」には(劇中の時間軸で)新型ターミネーター、T-800(いわゆるアーノルド型)としてCGで顔だけ出演。「4」を観た時は「ジョン・コナーはサラと違ってアーノルド型にはいい思い出しかないのだから、たとえこのT-800が悪者だとしても、その顔を見てちょっとは感慨深く思うシーンがあっても良かったのではないか」などと思ったのだが、あれは元は別の俳優が演じてたのをあとから「やっぱりシュワも出さなきゃ」ってことで顔だけすげ替えたらしいです。
 シュワルツェネッガーは「4」みたいなほんのちょっとだけのゲスト出演を別とするとカリフォルニア州知事を辞め俳優に本格復帰してからはこれで3本目(大脱出」を入れると4本目)の主演作だが、ここで自身の出世作でもある「ターミネーター」の新作への出演となった。しかも今度はちゃんと出ずっぱり!アラン・テイラー監督「ターミネーター:新起動/ジェニシス」を観賞。

物語

 人類と<スカイネット>率いるマシーンの凄惨な戦いが続く未来。ジョン・コナー率いる人類軍はついにスカイネット本体を置いつめこれを撃破したかに見えた。しかし直前にスカイネットはタイムマシンで刺客を過去に送っていたことが判明。タイムトラベルの先は「1984年のロサンゼルス」。ジョン・コナーが生まれる前にその母親であるサラ・コナーを殺し歴史を変えるつもりなのだ。サラを守るべくタイムトラベルに志願した兵士の中からジョンが選んだのはカイル・リース。彼は未来(彼にとっての現代)には戻れないことを覚悟してタイムトラベルに挑む。彼が過去に転送されたその瞬間、カイルはジョンが襲われるところを見る。そして時空の間で本来の自分にはない記憶がフラッシュバックするのだった。
 1984年、先に現れたターミネーターT-800。不良から衣服を巻き上げようとしたその時、その前に現れたのは同じ顔、但しかなり老けている男だった。男はT-800を撃破する。そして1984年に辿り着いたカイル・リースの前に現れたのはまだ観たこともない液体化するターミネーターT-1000だった。窮地を救ったのはサラ・コナー。しかし彼女は事前に聞いていたか弱いうウェイトレスではなかった…歴史に何が起きたのか?!

 このシリーズは元々はジェームズ・キャメロンが「ピラニア2殺人魚フライングキラー」を監督していたとき、当時の大変な環境の中で熱を出し寝込んでいた時に観た悪夢が元になっているという(炎の中から起き上がるエンドスケルトン)。話自体は特に目新しいものではなく(実際SF作家のハーラン・エリスンに自分の著作を元にしていると訴えられ、キャメロンもこれを認めている)公開時期的にも丸かぶりな「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」とも通じる。「フランケンシュタイン」以来の「自己の創造物に反乱を起こされる人類」の物語だがその力強い演出と表現、シュワルツェネッガー演じるターミネーターの有無を言わせぬ迫力でSF映画史上に残る一本となった。
 タイムトラベルものとしてはいわゆる「父殺しのパラドックス」。ただ一作目の時点ではそれほど複雑ではない。「2」は「1」でスターとなったシュワルツェネッガーを今度は善玉として登場させ一作目とは比べ物にならないスケールや技術の進歩でこれまたSF映画史上に残る1本。ここまでが創造主キャメロンによる正伝。
 3以降はキャメロンが関わっていないこともあって評価が様々だが、基本はタイムパラドックスものなので1と2を根幹としそこからは枝分かれして、映画(3、4)、小説、TVドラマ「ターミネーターサラ・コナー・クロニクル」、ユニバーサルスタジオ用アトラクション「ターミネーター2:3D」など異なる物語(未来)が語られている。キャメロンが否定的だったとも言われる3,4の時と違ってスタッフとして関わってこそいないものの本作にはキャメロンが賛辞を寄せていて、(実際の権利とかとは別に)キャメロン公認ではあるようだ。本作もどうやら3、4とは別に2から続く未来を拠点にしているよう(1997年に審判の日が起きたことになっているので、あるいは2もなかったことになっている?)。最初の未来世界では荒廃した世界での人類とマシーンとの戦いが描かれ、最初のT-800やカイルが1984年に送り込まれた過程を描いている。これは1作目での前提となる背景を丁寧に再映像化している*1、といってもよくこの時点では「今回はリメイクなのかな?」と思わないでもない。ところがいざ1984年に行ってみると先に送り込まれたT-800は老化したおなじアーノルド型に倒されてしまうし、カイルは彼のいた未来ではまだ存在していない最新型のT-1000に襲われるし、本来守るべき存在、か弱いウェイトレスだったはずのサラ・コナーはすでに歴戦の勇士となって逆にカイルを助けている。どうなってんのこれは?というのが本作の物語だ。
 どうやら別の誰かたちがカイルのいた時代よりも、もっと未来からいろんな時代に送り込んでいたらしい。最初のT-800を倒した老人のT-800はサラが9歳の頃に送り込まれてサラを守り、教え、鍛えていた。この変更は実に現代的だと思う。1の前半こそキャーキャー言ってるだけの女の子、という感じだったリンダ・ハミルトンのサラ・コナーだが「2」で見せた「強い女性」は画期的であり*2、TVシリーズでも「300」シリーズのスパルタ王妃ゴルゴや「ジャッジ・ドレッド」のギャングのボス・ママなど強い女性を演じさせたら間違いないレナ・ヘディがサラを演じていて、いまさらか弱いウェイトレスとしてのサラを出すのも時代にそぐわないだろう。

 新しいサラを演じたエミリア・クラークはTV「ゲーム・オブ・スローンズ」組の一人。見た目はリンダ・ハミルトンレナ・ヘディに比べると幼く可愛らしいがだんだん「ちょっと幼いミシェル・ロドリゲス」ぽく見えて頼もしくなってくる。彼女自身がタイムトラベルするシーンもあるので一応全裸になります(そう言うシーンがあるというだけで全裸ヌードが見れるわけではない)。
 1作目では彼女もカイルも知らぬまま実は二人の間に生まれた子供がジョン・コナーだった。つまりカイルが送り込まれなければジョンは誕生しない、というタイムトラベル物ならではの展開があるが、本作ではサラはそのことを知っており、さらに劇中で結ばれる前にカイルにもネタばらしされてしまうため、変に意識してしまい逆に結ばれない、という展開に。ちなみにポルノやアダルトビデオ以外でのもっとも魅惑的なベッドシーンはもしかしたら1作目のサラとカイルのベッドシーンかもしれない。子供の頃はやけに興奮した記憶が。大人になって見返したらまああたりまえだけどそれほど過激なわけではないんだけど。

 4代目となるジョン・コナーにジェイソン・クラーク。これまでのジョン・コナー(2が少年、3でもまだ青年であるのを置いておいても)の中でも一番恰幅はよく軍人としてのリアリティにはあふれている。ジェイソン・クラークは「ゼロ・ダーク・サーティ」ではCIAのエージェント、「ホワイトハウス・ダウン」でテロリスト実働部隊のリーダー役として出てきた。はっきり言えばちょっと太めでイケメンと言う感じでもなく、あんまり善人のイメージもないのだが、この前には「猿の惑星・新世紀」で人類側の代表のひとりとして類人猿の代表シーザーとの折衝役を務め、理解を示す役を好演。本作でもクリスチャン・ベールエドワード・ファーロングの華麗さこそないけれど、実務に優れた指導者としてのジョン・コナーを演じていた。とはいえやはり後半になってからの悪役としての方が輝いている気はする。
 カイル・リースにはジェイ・コートニー。「アウトロー」でトム・クルーズ、「ダイ・ハード/ラスト・デイ」でブルース・ウィリス、そして本作でシュワルツェネッガーとやけに大物との共演が多くそして徐々に主役級になっている気がして、正直どうしてここまでフューチャーされるのだろう?そんなに格好良いとも思えないのだが?と僕なんかは思ってしまう。特に1作目でカイルを演じたマイケル・ビーンの明らかにハンサムという容姿と比べるとハンサムではあるがかなり癖があるタイプに見える。それでもユーモア溢れるシーンも多く、徐々に魅力的には見えてくるのだが。
 ただ、やっぱりジェイソン・クラークにしてもジェイ・コートニーにしてもこういうSFアクション映画でヒーロー役を務めるにはどうしても花がない。良い俳優ではあるのだが、シュワルツェネッガーイ・ビョンホンのような"スター"としてそこに居るだけで存在感があって輝きを放つ俳優に比べるとどうしても圧倒的に地味に映ってしまう。ふたりとも主人公の前に立ちふさがるテロリスト実行部隊のリーダーみたいな役だともっと輝く気もするのだけれど(これは過去の出演作品での役柄に僕が囚われているから、と言う見方もできるし、実際ジェイソン・クラークは後半悪役になってからのほうが輝いている。また今後スターとしての輝きが出てくる可能性だって十分あるし、何より良い俳優であることは確かで決して二人を否定しているわけではない)。

アイル・ビー・バック


 アーノルド・シュワルツェネッガーが堂々主演に復帰。元々「ターミネーター」という作品の設定から考えるとサラ・コナーはともかく敵であるターミネーターは毎回違くても問題ないと思うのだが、1作目でシュワが演じたT-800が強烈な印象を放ち結果、2以降でもシュワが続投、しかもプログラムを変更されたマシーンということで善玉として出ることとなった。一度そういう決定をしてしまえば元々機械、同じ顔が出てきても問題はなし(当時は工場で量産されるシュワ顔のターミネーター(アーノルド型というらしい)というCMがあったし、後には幾多のパロディも作られている)。逆に機械なのに登場するたび老けていくのはどうなの?とか3の頃言われていた気がするが、今回は最初に送り込まれた若いT-800とサラ・コナー9歳の時代に送り込まれそのまま表面の皮膚は人間同様老化し、機械も多少ボロになった「オジサン(サラがこう呼ぶ)」として登場。若い方は「4」で出てきたT-800の技術の発展形であるが、かなり自然だった気がする。
 メインのシュワは舞台が2017年に移るとさらに年を取りもう殆ど普段のシュワのままだろう。「旧式でもボロではない」と現役であることを謳う(が、多少部品にボロはあってぎこちない動きももうほとんど普段の初老の人。それでいて時折見せる人間とはちょっと違う様子が中々風流。
 今回はなんといっても役名が「Guardian」。エンドクレジットでは「T-800」でも「Terminator」でも「オジサン」なく「Guardian=守護者(あるいは保護者)」と出てくる。その名の通りサラ・コナーの保護者として彼女を守護する。ここに来てアーノルド型は破滅よりむしろ守護を象徴するキャラとなったといえるだろう。
 俳優復帰以来一作ごとに意欲的な作品に出てきたシュワルツェネッガーだが、ここに来てまた「ターミネーター」かよ!とか思ったのだが、冷静に考えるとドイツ出身というシュワの経歴がそのまま(シュワの場合はオーストリアだが)役柄に反映されていたり、自分のパロディを物ともしない感じだったのである意味原点であるターミネーターに戻ることは必然だったのかも。
 ただ「アイル・ビー・バック」の決め台詞の字幕が「戻ってくる」とかじゃなくてそのままカタカナで「アイル・ビー・バック」だったのにはいかがなものか。

 他には液体金属のターミネーターT-1000としてイ・ビョンホンが出てきます。元々1作目でシュワがターミネーターを務めた経緯にはその顔や身体の他にもほとんどセリフがないのでドイツ語なまりが取れなかった当時のシュワには最適だった、というシュワ側の事情もあるそうなのだけれど、そういう意味ではイ・ビョンホンもいわゆる外国人がセリフ喋らなくて済む役、という感じなのかも。ターミネーターには元々ランス・ヘンリクセンが予定されてたそうなのだけれど、その意味ではイ・ビョンホンもオリジナルT-1000のロバート・パトリックもシュワとは違う爬虫類顔の美形といった感じ。ただイ・ビョンホンのT-1000はすぐ倒されちゃうので、「エグゼクティブ・デシジョン」のスティーブン・セガールみたいなスポット参戦。今回は脱がないしあんまりイ・ビョンホンに期待すると拍子抜けではある。
 後は1984年でヘナちょこだった警官が2017年ではすっかりおっさんになった刑事としてJ・K・シモンズが登場。これもモデルは1作目で出てきたランス・ヘンリクセンたち警察か。しかしJ・K・シモンズである。スパイダーマンの鬼編集長J・ジョナ・ジェイムスンにTVシリーズ「OZ/オズ」の凶悪囚人シリンガーである。僕は見てないけど「セッション」もかなり鬼だったらしいね。そんなJ・K・シモンズが比較的へなちょこな刑事として出ているのでちょっとした見どころでも有ります。
 話としてはちょっと後半がだれた印象。またこの作品が新たな3部作の第1作となる予定らしく*3、劇中で解明されない謎やあからさまに続編への引きがあったりするのでちょっと散漫な印象も。
 最初はリメイクなのか、リブートなのか*4、それとも正当続編なのか、分からぬまま観たのだけれど、話としては「タイムトラベルによって誕生した新たな時間軸の物語」ということでこれまでの「スタートレック」とJ・J・エイブラムスの「スター・トレック」みたいな関係が一番近いか。シリーズを通しての矛盾はタイムパラドックスものであるし、作品の雰囲気か僕の場合あんまり気にはならなかった。かなり雰囲気は緩く、印象は3に近い。シリーズのファン、特に1と2を絶対視するような人には嫌われるかも。

 しかし、最初は1997年だった審判の日が3では2003年に伸び、今回は2017年まで伸び、それも回避したのでシリーズ続ければそのうち「何も起きませんでした」て事になるかもね、ならないかもね。 

Terminator Genisys (Music from the Motion Picture)

Terminator Genisys (Music from the Motion Picture)

 音楽はローン・バルフェという人。おもにゲーム音楽を手がけている人なのかな。エグゼクティブ音楽プロデューサーとしてハンス・ジマーが関わってるせいかちょっとジマーっぽいです。ブラッド・フィーデルのテーマ曲も出てきます。

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 シリーズ前作。旧ブログの方です。

 監督の前作。「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」の感想はもうちょっと待って下さい!

ターミネーター3 [Blu-ray]

ターミネーター3 [Blu-ray]

*1:7月13日追記。本作を劇場で観た後、録画していた1984年の「ターミネーター」を見たら、本作でカイルとT-800が1984年にやってきた直後の数シーンは1の完コピだったのだな。その辺は丁寧

*2:それ以前にも「エイリアン2」のリプリーバスケスなどキャメロン作品での強い女性や女軍人は出てきたが、主役でリプリーを凌駕する強い女性として出て来たのは画期的だったと思う

*3:4も3部作とか言ってた気がしたが

*4:そもそもリメイクとリブートの違いもよく分かっていない