The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

終末の始まり 猿の惑星 新世紀


 先行公開で観て、書こう書こうと思っているうちに、ブログ更新出来ない状態で1ヶ月空いてしまい、そのまま放っておいたのでかれこれ2ヶ月も経っているのですっかり記憶が風化してもう何を書けば良いのか自分でも分からなくなっている、という悪循環でどうしようか戸惑っていたのだが、とりあえず書きます。短くはなると思うけれど。「猿の惑星:新世紀<ライジング>」を観賞。

物語

 シーザーが人類に反旗を翻し、仲間の類人猿たちとともにサンフランシスコの奥の森に独立したコミュニティを築いて10年後。人類はウィルスのパンデミックによって大半が死滅。免疫の出来生き残った人間の一部はサンフランシスコの廃墟後で細々と暮らしていた。ウィルスは猿インフルエンザと呼ばれ、この衰退をシーザーたちのせいと決め付け恨んでいるものも多い。
 この10年、シーザーたちと人類の接触はなかったが、それが打ち破られる。シーザーの息子ブルーアイズが人間と遭遇。銃撃が起きたことで一触即発となった。シーザーは人間のもとを訪れ警告するが、「言葉の喋れる猿」の存在に人々は動揺する。人間たちのリーダーの一人マルコムは猿の住む森の奥にあるダムの発電施設を復旧させなければもはや生活も苦しいと判断。家族や仲間とシーザーたちとの交渉に赴く。その一方でもう一人のリーダー、ドレイファスは武装化を奨めるのだった。そしてマルコムに理解を示すシーザーだったが、一人人間に深い恨みを抱くコバだけはそれを疎ましく思っていた…

 まずは前作の感想。

 旧シリーズの感想などについても書いてます。ここで僕は、

原作はフランス人のピエール・ブール第二次世界大戦時にマレー半島でゴム園を経営していた著者が日本軍の捕虜になった時の経験を基にしているとも言われている(ブールは「戦場にかける橋」の原作者)。

 と書いているけれど、どうも現在ではブールは日本軍の捕虜にはなっておらず、当時親ナチス・ドイツ政権として成立したヴィシー政権側についた仏領インドシナの捕虜となった、というのが正解のよう。「日本軍の捕虜となりその経験から「戦場にかける橋」や「猿の惑星」を書いた、と長年言われていたので特に疑問も持たずそのまま書いてしまったが微妙に異なるようだ。今後も新たな発見があるかもしれない。
 
 原題は「DAWN OF THE PLANET OF THE APES」で「猿の惑星の夜明け」。前作は「RISE OF〜」だったので、前作で昇ろうとしていた太陽(この場合は猿の国家を指すか)が姿を表し朝が来た、という感じか。邦題は前作の「創世記<ジェネシス>」から「新世紀<ライジング>」へ。こちらも基本的には前作を受けて更に一歩進んだ世界観を表していると思う。この邦題は「ダークナイト ライジング」から始まる流れの一つだと思うが、面白いのはアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」では「新世紀」の部分に「NEON GENESIS」と英訳がふられるのにここでは先に「創世記」に使ってしまったため本来前作の原題に近い「ライジング」と読ませてしまっている。
 基本的には前作から順当にパワーアップした物語。監督はルパート・ワイアットから「クローバーフィールド」「モールス」のマット・リーブスへ交代。サルたちは前作から引き続き登場なれど人間は新しくなっている。

 シーザーを演じるのはもちろんアンディ・サーキスで今回は最初から猿達のリーダー、指導者として絶対のカリスマを放っている。他にも前作から引き続きコーネリア、ロケット、モーリスそしてコバが登場。前作では基本的にシーザー含め猿達は喋らず表情と手話などで感情・意見を表現したが、今回は多くの猿が喋るようになり(とは言ってもまだ全員というわけでもなく、また基本は身振り手振りでコミュニケーションをとっているようだ)、猿同士のコミュニケーションが当然多くなっている。アンディ・サーキスはシーザーほかその他の猿も演じている(モーションキャプチャー)ようだが、それでも重要な登場猿は他の役者が演じている。

 前作が「猿の惑星・征服」を踏襲していたように、今回は「最後の猿の惑星」に内容は準じていると言っていい。2つの集団に大きく4つのグループが登場しそれぞれ共存派(穏健派)と排斥派(過激派)と別れる。シーザーはそのまま「最後の猿の惑星」のシーザーと同様の役割。もちろん猿の指導者であるが、人類との甘い思い出もあるため、比較的寛容。猿コミュニティの若者、革命後に生まれたブルーアイズやアッシュ(ロケットの息子)は間接的にしか人間を知らないので長老たちの教えによってどちらにも傾く。そしてコバが酷く人間に実験材料として扱われた恨みもあって排斥派となる。コバが「最後の猿の惑星」のアルドー将軍に当たる。
 一方人類はジェイソン・クラーク演じるマルコムは人類の穏健派ということで「最後の猿の惑星」のマクドナルドに、ゲイリー・オールドマン演じるドイレイファスはコルプ知事に相当するか。とはいえ予告編で受ける印象と違ってドレイファスはそれほど悪人という印象は受けない。それは確かに猿と人類の共存と言うよりは猿より人間が上位にくると思っている人物ではあるがそれは致し方ないことだろう。(映画だと猿側にグッと共感して観るのでどうしても悪役という形になってしまうが)人類の立場からしたら十分理解のできる人物だと思う。これは「最後の猿の惑星」がコルプ知事側から猿のコミュニティに戦争をしかけるのに対し、「新世紀」では基本的に防衛の備えはしていても人類側から攻め込む描写がないからだろう(とはいえ最後まで見ると時間の問題でもあるのだが)。
 結局この映画において悪役を引き受けるのはコバである。コバは前作でもジェネシス社の幹部をゴールデン・ゲート・ブリッジから蹴落としたり一筋縄では行かない猿を演じていたが、今回はシーザーの腹心の部下の一人、しかし奥底でシーザーの人間に理解を示す態度に苛立っている人物でもある。よく考えればコバはシーザーとはまた別なオリジナルの「知能を持った猿」の一人でありある意味でシーザーと並んで他の猿とは特別でもある。

銃を与えるな!


 コバは後半人類に戦争を挑み、その際に銃を手にする。そのために道化を装う姿はその努力に涙を誘うが、やはりこの映画の一番の悪役はこのコバだろう。彼は「猿は猿を殺さない」という禁忌を破りシーザーを罠にはめ瀕死の重症を負わせ、他の猿達を煽る。ブルーアイズやアッシュら若い猿達はその扇動に乗っかって人間と戦うことに。やがて自分の力に酔ったコバはラスト近くになると表向きの倫理を装おうこともやめ、命令に異議を唱えたアッシュを他の猿たちの前で殺す。このコバの描写に対して、暴れっぷりが清々しい、とか肯定的な評価が多かった気がするのだが(暴れっぷりに限定しての描写はまだともかく)僕は案外その辺はノれなかった。意外と映画というフィクションでも僕は現実の倫理観に縛られそういう悪人の悪人たる描写に割り切ってみれない部分ががあるなあ(作品によるんだけれど)。「最後の猿の惑星」でも銃の取り扱いは厳重に厳重を重ねていたが、本作でももし銃がなければここまでの悲劇にはならなかっただろう。
 最後はシーザーとコバの一騎打ち。これも「最後の猿の惑星」のシーザーとアルドーの対決をもっとアクション性も高く描いたもの。結局シーザー自身が「猿は猿を殺さない」というルールを破らなければ決着がつかないのだ。

 「最後の猿の惑星」は(TVシリーズを含めなければ)シリーズの最後の作品であり、ここで猿と人類の共存が果たされたことを暗示して終わる。ところが「新世紀」ではアメリカ以外の人類との連絡に成功したドレイファスによって他の地域(まだ文明が残っていて兵器も現存している)の人類がサンフランシスコに猿を倒しに現れ、やがて猿と人類の最終戦争が起きることが暗示して終りを迎える。おそらく物語はもう少し続くだろう。この後猿と人類の共存があるのか、それとも片方がもう片方を駆逐して終わるのか。「続・猿の惑星」のように地球そのものが終わりを迎えるのか。シーザーの苦悩は続く。

 続編としても真っ当なパワーアップを示した作品であり、「最後の猿の惑星」のリメイク作として見た場合でも素晴らしい出来だと思う。ただ、個人的にアルドー将軍に当たるコバがゴリラのアルドー将軍からチンパンジーのコバになったことで今回は全体としてゴリラの出番や印象が薄い(オランウータンは前作に引き続きモーリスが大活躍)のが残念(ゴリラ大好き)。
 前作は「猿の惑星・征服」今回は「最後の猿の惑星」と雛形となる作品があったが、次の続編があるとすれば本当の意味でオリジナルな物語になると思われる。猿にとっての創世記、新世紀を経て果たして次に来るのは黙示録かそれとも…?*1


 猿は猿を殺さない

*1:次は「出エジプト」的な展開になるのではとも予想する