The Spirit in the Bottle

旧「小覇王の徒然はてな別館」です。movie,comics & more…!!!

地獄のプロム録 キャリー


 1972年、1人の高校教師が小説を書いたがそれを途中でゴミ箱に捨てる。パートから帰ってきた教師の妻はそれを拾い上げ、夫を励まして原稿を完成させる。それがのちの大ベストセラー作家、スティーヴン・キングのデビュー作「キャリー」が世に出るきっかけとなった出来事である。
 この有名なエピソード(最初のキャリーが初潮を迎えてパニックに陥るシーンで男性であるキングはいきなりつまづいたようだ。そこで妻のタビサの助言があったのかも)を持つキングのデビュー作*1「キャリー」はしかし、いきなりベストセラーとなったのではなく、同作を映画化したブライアン・デ・パルマ監督の「キャリー」のヒットに伴い原作も売れた、ということらしい。かくして希代の大作家はその第一歩を踏み出し、現代に至っている。その原点「キャリー」のリメイクを観賞。

物語

 狂信的なキリスト教信者の母親に育てられた16歳のキャリエッタ・ホワイトは体育の時間の後更衣室で初潮を迎え知識のない彼女はパニックに陥った。自分の血を見て怯える彼女をクリス・ハーゲンセン、スー・スネルをはじめとした女子たちはタンポンを投げつけからかう。
校長とデジャルダン先生はクリスたちに罰を与えるが、逆らったクリスはプロムへの出席を禁止される。一方罪悪感に悩むスーはボーイフレンドのトミーにキャリーをプロムに誘うよう説得する。最初はからかわれていると思ったキャリーもやがてトミーの人柄に惹かれこれを了承。クリスはキャリーを逆恨みし、恋人の不良ビリーとプロムの場で恥をかかせようと画策するが…
プロム当日、キャリーは反対する母親を自宅の狭い礼拝堂に押し込め鍵を焼き付けた。誰も知らなかったがキャリーは念動力の持ち主だったのだ…!

 今回の作品は、キングの原作の再映画化というよりはデ・パルマ版のリメイクという趣が強いようだ。僕は今回の「キャリー」を観るに際してデ・パルマ版を見直したりはしなかったのだが、原作はキングの小説の中でも大好きな作品でそちらの方は読み直したりしたのだった。
 今作はイマイチ評判も良くないが、それはほとんどデ・パルマ版と比べての評価だと思う。僕は見直していなかったこともあって、あんまり比べて観ることはしなかった。その視点でいえば、標準以上の佳作であったと思う。もちろん幾つかのシーンはデ・パルマ版の描写は強烈に覚えていて、やはり敵わないな、と思うところもあったりはしたけれど。
 で、おそらく一番の懸念材料は主役のキャリーを演じたみんな大好きクロエ・グレース・モレッツだろう。彼女が美しく才能があるのは間違いないが、キャリーを演じるには明るく健康的過ぎる気がする。以前「ビザンチウム」の感想の時もちょこっと書いたが、同じ、血塗れが似合う美少女であってもシアーシャ・ローナンとクロエでは意味合いが違ってくる。クロエは何と言ってもヒットガール、血塗れであっても陽性の輝きを持つ。どんなにみすぼらしい地味な少女に扮していてもどうしても愛嬌が溢れてしまうのだな。シアーシャの方がデ・パルマ版でキャリーを演じたシシー・スペイシクに雰囲気は近いと思う。
 とはいえ、デ・パルマ版のキャリーの描写が必ずしも原作に忠実というわけでもない。むしろあの時のシシー・スペイシクこそ特異な存在で、あのキャリーを再現するのは誰であっても不可能なのではないか、という気もする。
 クロエは前述したとおり、どうしても愛嬌があるので、それほどキャリーのネガティブ面は暗くならないのだが、逆に程よいリアリティを持っていたと思う。

その他のキャストは女性陣が皆個性的な美人ばかりで、重要な役であるスーやクリス、ミス・デジャルダン以外にも双子?の美人なども印象深い。スーは最初登場した時、そのスーパーモデルか?!と疑うような美人ぶり(周りの女子学生より頭一つ身長が高い)でてっきり、「これがクリスか」などと思ってしまったのだが、性格の悪いクリスではなく、スーの方でした。演じるのはガブリエル・ワイルドという名前の通りワイルドな肢体の持ち主で、ポール・W・S・アンダーソンの「三銃士」にコンスタンス役で出てたそうだが、あんまり記憶になし。今度TVで放送された時は気をつけて見てみよう。レベッカ・ローミンの若い頃、あるいはエル・ファニングがもっと成長した姿、という感じ。明らかに女子高生と言うには浮世離れしているというかモデルっぽすぎて嬉しい違和感。顔のアップになるとまだ幼い感じ(それでももう24歳!)なのだけれど。僕はもっぱら彼女の太腿ばかり見ておりました。
 クリス役はポーシャ・ダブルデイという人。最初はスー役のガブリエルに圧倒されて目立たなかったけれど、すぐに性悪な部分を発揮してクリスとしての存在感を発揮する。あとはミス・デジャルダンのジュディ・グリア。彼女も美しく頼りがいのある教師を見事に演じていて、印象に残りました。
 女性陣が強く印象に残る一方で男性陣はあんまりパッとせず、トミーはぬぼーっとした雰囲気でちょっと、スーのボーイフレンドとしては垢抜けない感じ。個人的にはキャリーが学校の図書館でテレキネシスについての動画を見ている時、「フルスクリーンで見れるよ」と助けくれる少年が中々好印象で原作と変わってしまうのは分かっているが、トミーのキャラクターをこういう爽やかなオタクっぽい風に変更してもいいのになあ、などと思ってしまった。まあ彼はプロムでも撮影係としては出てくるが(おそらく死亡する…)。
 かつて「サタデーナイト・フィーバー」で売れる前のジョン・トラボルタが演じたことでも有名なビリー役はアレックス・ラッセル。彼の登場シーンはもっぱら暗いので顔もよくわからないぐらいではあるが今回はキャリーやクリスたちより年上の不良。「クロニクル」でマットを演じている。彼の起用が「クロニクル」を意識しているかどうかは分からないが、最近両方を見た人はその共通点を感じた人も多いと思う。もちろん、「クロニクル」の方がより現代的だし、宗教要素が希薄ではあるが、アンドリューとキャリーに共通する疎外感や孤立感は両作品の胆と言えるだろう*2
 それにしても、デ・パルマ版のクリスとビリーである。ナンシー・アレンジョン・トラボルタが演じていたが一目でわかるアクの強さだ。もちろん、僕が見たのは公開時のリアルタイムではなく、「ロボコップ」や「パルプ・フィクション」で彼らを認識していた後で、最初から確認する形で出演を認識していたということもあるだろうけど。ナンシー・アレンジョン・トラボルタの二人はこの後やはりデパルマ監督の「ミッドナイト・クロス」でも今度は主役としてカップルを演じることとなる。ちなみにナンシー・アレンは日本語版Wikipediaの「キャリー」の記事だと、今回の「キャリー」にも出ていたそうなのだけどクレジットなしの特別出演だろうか?(単に日本語版記事の間違いかもしれないが)
 だが、やはり一番の見所はキャリーの母親マーガレット・ホワイトを演じたジュリアン・ムーアだろう。ジュリアン・ムーアも「ハンニバル」のクラリスジョディ・フォスターから引継)、リメイク「サイコ」でライラ(オリジナルはヴェラ・マイルズ)などなんとなく今回につながるような役を演じているが、今回もデ・パルマ版の当時絶賛されたパイパー・ローリーのマーガレットを向こうに回す鬼気迫る演技ぶり。クロエとシシー・スペイセクのキャリーはそもそも資質の方向性が違う感じだが、ジュリアン・ムーアは同じ方向性できちんと対抗できたパターンだと思う。

 さて、ここからは映画作品というより、原作の「キャリー」について少し。以前にも「スーパー8」の時に書いたが、アメリカ80年代カルチャーは2人のスティーヴン果たした役割が大きいと思う。1人は今回の「キャリー」の原作者。モダンホラーの旗手で大ベストセラー作家スティーヴン・キング。そしてもう一人は、映画監督・制作者のスティーヴン・スピルバーグである。もしこの2人が存在しなかった、と想像すると今とは全然違ったカルチャーが出来上がっていただろう。そのくらいこの2人がアメリカの、ひいては世界のエンターテインメントに与えた影響は大きい。それだけでなくこの2人は育った環境も似ている。幼い頃に両親が別れ(スピルバーグは離婚、キングは父親が蒸発)、母親に育てられるも、父親の遺したSF雑誌やホラー雑誌を発見してそれぞれの道を志したところなどはそっくりである。スピルバーグの場合、彼を育てた母親の苦労が「イイ話」として語られることが多いが、キング、スピルバーグともに作家性ということでの影響が強いのは断然父親の方だと思う。
 さて、今年の僕の劇場鑑賞作ではキーワードとなっているのが「魔女」という単語で、この作品においてもその言葉が出てくるのだが、ここではキャリーの母親であるマーガレットが娘に対して「魔女」と言い放つ。今でこそ、キリスト教原理主義的な狂信者と言ってもいい女性が物語中において悪の役割を引き受ける作品は珍しくないが、それがメジャーになったのはこの「キャリー」においてではないだろうかと思う。ここでのマーガレットの発展系として「ミスト」のカモーディ夫人が挙げられるだろう。これが「キャリー」以前だとこういう役回りは「過激なキリスト教徒」というより「悪魔信仰をしている人」という形で描かれることが多かったのではないかと思う。この狂信者と悪魔教徒は紙一重であるのだ。その意味で最近の「ロード・オブ・セイラム」や「死霊館」の魔女描写はむしろ退行している、という気もしないではない。現実にも事件を起こしたり社会問題になったりするようなのはキリスト教原理主義者の方が圧倒的に多いのではないかなあ。多分最近の作品ということで「キャリー」と「クロニクル」に共通のものを感じる人が多いだろうというのは先述したが、もうひとつ、「親(主に母親)の呪縛」ということではむしろ「サイコ」や「13日の金曜日」に通ずるものがあると思う。「13日の金曜日」は「キャリー」の後だが「サイコ」の原作者ロバート・ブロックは間違いなくキングに影響を与えているはず。また「サイコ」のモデルとなった、エド・ゲインの母親は紛れもなくマーガレットと同様の存在である。世間から隔絶した社会に生き、子供を支配する。自らも女性でありながら、女性的な要素を汚らわしいものと考える。セックスを汚れた行為と考える人はその結果である妊娠・出産も汚らわしいものと考え、さらに飛躍して産まれた子供まで汚らわしい存在と考えてしまう人もいるらしい。そういう環境で育った子供は小さい頃から自らの邪悪な部分を(主に信仰によって)矯正しなければならない、と教えられて育っていく。キャリーはまさにそんな存在なわけだ。
 ロバート・ブロックからさらに遡るとH・P・ラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」のウェイトリィ兄弟あたりに行き着くのかなあ、とも思う。このラヴクラフト→ブロック→キングというラインはそのままアメリカンホラーの流れでもある(キングも大作家すぎてあんまり気にされないが、ラヴクラフトの影響を受け自らもクトゥルフ神話を手がける作家の一人である)。

 映画「キャリー」に戻ると、映像的には流石に現代風というか、きっちりテレキネシスの描写がされていてそれなりに見所がある。ただやっぱりこのクライマックスの大惨劇シーンはデ・パルマ版のカットバックと画面分割、そしてシシー・スペイセクの眼力によるものと比べると衝撃度は薄まっているかなあ。最もあれはデ・パルマの作家性がシシー・スペイセクという特異な役者を得て初めて成立すると思うので、安易に真似しろとも言えないのだけれど。ほぼ眼球向きだけでテレキネシスの指向を表現していたシシー・スペイセクに比べると表情だけでなく身振り手振りで表していたのがクロエ版の特徴か。
 キングの原作は三人称の地の文に事件を後から振り返る新聞記事や(生き残った)関係者の証言などが挟まれる。映画ではその辺はバッサリ省かれているが、例えば「第9地区」みたいにインタビュー映像を挟みながらセミドキュメンタリーぽく作るというのもありなんじゃないかなあ、と思ったりする。監督は「ボーイズ・ドント・クライ」のキンバリー・ピアース。女性監督だが、あんまり女性ならでは、って部分は感じなかったかなあ。
 デ・パルマ版と無理に比較したり(比較しないと言いつつ僕もがっつり比較してしまったが)、デ・パルマ版を知らなければ(キング原作映画としても)普通によくできた作品だと思う。僕としては「キャリー」という大好きな小説をもっと知って欲しいのでこの映画も是非観て欲しい。

キャリー (新潮文庫)

キャリー (新潮文庫)

記事タイトルはこちらから。アポカリプスなう。

*1:処女作ではなく、のちに「キャリー」以前に書かれた作品もリチャード・バックマン名義で出版されたり、作品内の作家キャラクターの創作物という扱いで陽の目を浴びたものも多い

*2:ただ、キャリーの超能力は生来のもの。それが開花するきっかけが学校におけるいじめや孤独である可能性はあるが