再録:教科書ってそんなに重要?
とりあえず、本館の方での自分で出来のいいと思った記事を再録したいと思います。最初は小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」を基にしたこの記事。元記事執筆2009年5月15日。
今週の「SAPIO」、6月3日号。普段ならどんなに適当なことが書いてあっても「まあ、よしりんの言うことだから」でスルーしてきたのだが、今回はあまりに分かりやすく適当なのでちょっと釣られてみる。
「ゴーマニズム宣言 天皇論」と題して書かれているが教科書について述べた部分。小林よしのりは現在の歴史教科書について、
仁徳天皇陵を大仙古墳と言い換え
聖徳太子を厩戸皇子と言い換え
1192年の鎌倉幕府誕生を1185年に変更
の三点を歴史から天皇の影響を消去するため、と(かなり無理のある)言いがかりをつける。
「大仙古墳」「厩戸皇子」
1185年・鎌倉幕府」・・・
つまりこれらの記述の変更は
日本史から「天皇」の権威を消そうとする企みがあると
わしは見ている!
「天皇なき日本史」を考えてる
左翼学者どもが歴史の改竄を
行っているのだ!
凄い被害妄想・・・しかし、これらは別に昨日今日変わったのではなく、随分前から知られていたことである(ある学説が認められて教科書に載るまでには結構な時間がかかる)。
1 仁徳天皇陵
最近の中学歴史教科書では
「仁徳天皇陵」と書かれていなくて、
「大仙古墳」と書かれている。
考古学的に検証されて
いないという理由らしいが、
天皇陵は遺跡ではない。
今も皇室の墓なんだから、
めったに墓暴きが
許されるはずはない。
宮内庁も地元の人々も
「仁徳天皇」の墓としているし、
しかもこの世界最大の
前方後円墳は、
国内的にも国際的にも
「仁徳天皇陵」として
覚えるのが常識じゃないか。
僕の子供の頃、既に仁徳天皇陵という呼び名は疑問符付きの名称になってたように思うが、あれが仁徳天皇の御陵(どうでもいいが皇室の墓所に対して「墓」はないだろう)とされたのは平安時代のことである。平安時代なら結構昔じゃん、と思うかもしれないがそれでも仁徳天皇の崩御からおよそ5世紀近くたってからのことである。
そもそも仁徳天皇という人物が実在したかも怪しいのだ(現在の天皇家で確実にさかのぼれるのは26代の継体天皇まで)。「記紀」の記述によれば西暦257年〜399年、在位313年〜399年)ということになり87年の在位、147歳まで生きたことになり到底信用できない。地元の人たちはずっと「仁徳天皇陵」と呼んでいるらしいし、それは全然かまわないけど学術的には「大仙陵古墳」の方が適しているだろう。
やはり証明するには発掘調査をするしかないだろうね。個人的には発掘調査をきちんとした上で世界遺産にするべきだと思う。勿論これは僕の一意見で、御陵なんだから調査させない、と言うのもひとつの見方ではあると思う。
「宮内庁〜」から始まる最後の文章も意味不明。
うん、でもそれは学術的な証拠は無いよね。
「しかもこの世界最大の前方後円墳は国内的にも国際的にも「仁徳天皇陵」として覚えるのが常識じゃないか。」
全然日本語として成り立っていない。なんだろ、世界最大の墓は問答無用で「仁徳天皇陵」にしろってことか?そうしたら多分「始皇帝陵(兵馬俑抗含む)」も「仁徳天皇陵」になるのか。
ちなみに昔はここはいい狩場だったらしいです。秀吉なんかが狩りをした記録もある。
(聖徳太子)もカッコ括りの
記述になっていて、
「厩戸皇子」と書かれている。
その理由が
「聖徳太子は亡くなってからの名」
だというのだから
馬鹿も大概にしろと言いたい。
つもりなのだろうか?
「厩戸」なら馬小屋だからいいが、
「聖徳」というほめ称える諡号を
消却したいとしか思えない。
厩戸皇子は本名である。いわれは諸説あるが生誕地の近くに厩戸(うまやと)という地名があり、そこから付けられたというのが有力のようだ。僕なんかは馬小屋の前で産気づき生まれた、と言う説がキリストと似ていて印象的だった。
小林は諡号を否定するなら歴代天皇も全部本名で呼ぶのか、というようなことを言っているが天皇とその家臣(皇族ではあるが)は区別するべきだろう。厩戸皇子が聖徳太子と尊称(追号。諡号ではない)されるようになったのは没後100年以上たってからである。大体あの時代本当に重要なのは太子より蘇我馬子の方だろう。聖徳太子の本名が不明、というならともかく「厩戸皇子」と判っているのだから、わざわざ尊称で呼ぶ必要は無い。
また、小林は「馬小屋」と馬鹿にするのが目的、みたいことを言っているが先に述べたように「厩戸」は立派な本名である。いったいどちらが馬鹿にしているだろうか。
厩戸皇子の名前、事跡、などから考えて歴史学的には聖徳太子よりも厩戸皇子の方が正しいとされている。もちろん、個人が尊敬の意味をこめたり、信仰の対象として「聖徳太子」と呼ぶことはなんら問題ない。ただし、歴史教科書としてどちらをとるべきかは自明の理だろう。
3)鎌倉幕府の誕生
さらに鎌倉幕府の成立も
1192年ではなくて、
1185年と記述している。
源頼朝の支配権が西国に及んだ時を
幕府の成立にするらしい。
要するに頼朝が
時にしたくないわけだ。(強調は原文より)
少し前までは、鎌倉幕府は源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年をもって誕生したとするのが通説だった。現在では様々な説が立っている。その中でもっとも有力なのが1185年説だ。この時期には既に鎌倉幕府の基本機構が確立していたためである。
小林はこれも「天皇が任命する」という天皇の権威を消去するために1185年説が採用されたのだ、と主張する。しかし小林の説を採用すると天皇の権威はもっと損なわれてしまうのだ。
当時、義経をかくまう奥州藤原氏を征伐するために頼朝は再三朝廷に征夷大将軍の任官を要請しているが後白河法皇の朝廷はこれを拒み続ける。しかし結局半ば言いがかりをつけ、1187年に藤原氏を滅ぼしている。この時点で征夷大将軍の地位は必ずしも名前通りの役職ではなく武士の棟梁としての役職に位置づけていたようだ。しかし後白河法皇は断固として頼朝を征夷大将軍に任命することを拒否、結果その死後に鎌倉政権の圧力に耐え切れなくなった朝廷が頼朝を征夷大将軍に任命することになる。名実ともに鎌倉幕府の誕生である。
つまり頼朝を征夷大将軍に任命しないことで権威を保っていた朝廷が法王の死後、圧力に耐え切れなくなり嫌々任命したのである。だから征夷大将軍任命をもって鎌倉幕府の誕生とする説は、天皇の権威という点から見るとより損なわれてしまうだろう。
まあ、実際はひとつの年に限定すべきではなく「1180年代から1190年代初頭にかけて成立」と言うのが順当なところではないか。
歴史学は過去のことだけに一度確定したら変化しないと思われるかもしれないが、そんなことは無く、むしろ新しい発見や学説が次から次とある分野だ。もしかしたら、ここで挙げたものもまた新発見によって覆されるかもしれない。
それこそ大仙陵古墳から埋葬主が仁徳天皇であることを示す遺物が発掘されるかもしれないし(宮内庁が許可すればの話だけど)、厩戸皇子が生前から聖徳太子を名乗ってた証拠とかも出るかもしれない。ただし現時点では小林の主張は時代遅れとしか言えない。
しかし、あれだ。伝源頼朝像や伝足利尊氏像とかが違う人物を描いたものとして訂正されていくのも天皇の権威を消去するため、だと思ってるのかな。
日本史から天皇の影響(小林は権威と言っているが)を消去しよう、なんてできるわけが無い。そんなことは皆わかっているはずである。
しかし、今回の記事って歴史のプロでもない僕が1時間ぐらいで勢いで書けた物。小林よしのりの説はそのくらい穴だらけなのだ。この人かつては「新しい教科書を作る会」に深く関わってたんだよ。この程度の知識で何を新しくしようと思ったのか。
もちろん僕が間違ってる部分もあるかもしれない。もし読んだ方で気づいた方はご指摘お願いします。
小林よしのりの宗教や政治心情は僕にはどうでもいい。まあ、絶対に相容れないけど別に迷惑してるわけでもないし。ただ、こういった明らかな間違いをばら撒くのはやめて欲しい。
そもそも学校の歴史教科書ってそんなに重要なものか?皆さんは学校の教科書で思想的に影響受けたりしましたか?僕はそんな人見たことない。
この手の人たちって何でそこまで教科書を神聖視するんだろう(右も左もね)。
貴方は小さいころに影響を受けた本を挙げよ、と言われて教科書を出しますか?
(以上ここまで)
追記 この記事を書いた後に小林よしのりはこれらをまとめた「天皇論」を出版。結構売れたみたいです。実はこの記事をはてなブックマークしてもらってはてなに興味を持ちました。